鵜咋

鵜咋(うくい / うぐい)  

短刀
七寸五分

  • 「鵜噬」「鵜食い」
  • 石見吉見家伝来。

由来  

  • 吉見家の先祖が川漁に行った際、この短刀を河中に落としてしまう。
  • 三年後、同じ場所で鵜飼を行った際、ある鵜がこの短刀を咥えてきたことから名づけたという。

来歴  

  • 文明14年(1482年)5月27日、大内邸における宴席において、吉見信頼はこの短刀で陶弘護を刺殺、自らも内藤弘矩に殺されるという事件(大内山口事件)を起こしている。
  • 事件に使われた「鵜咋」は大内家に没収されるが、のち吉見信頼の父である成頼に返却され、吉見家に伝来した。


大内山口事件  

  • 吉見氏の第8代当主である吉見信頼は、戦国大名大内氏の家臣であった。
    吉見成頼─┬信頼
         └頼興──隆頼──正頼──広頼──広長……吉見政春
             (次男)(五男)    (次男)
    
    吉見政春:吉川広家の次男政春が、広長の妹の婿養子となり名跡を継いだ
  • 文明14年(1482年)、大内政弘が山口の築山館で酒宴を開いた際、その席上で陶弘護を殺害した。しかし自らもその場で内藤弘矩に成敗される。
  • 信頼が凶行に及んだ理由については諸説あり、文明2年(1470年)の大内道頓の乱以前から領地の境界紛争が生じていた陶氏への不満や、乱の鎮圧者である弘護への恨みなどが考えられているが、事件直前に家督を弟の吉見頼興に譲っていることから計画的犯行と推測される。
  • また、弘護を殺害した際に凶器として使われた信頼の刀は「鵜噬(うくい)」と呼ばれる吉見氏家宝の短刀であったがその後「大内政弘からの下賜」という形で父の成頼に返還されていること、弘護の没後に行われた大内政弘による吉見氏討伐も突然中止・撤退して終わったことから、主君である大内政弘がこの事件の背後におり、内藤弘矩による殺害も口封じ目的であったする説もある。