鯰尾刀

鯰尾刀(なまずおがたな)  

太刀
三条家伝来
なまづお

由来  

  • 三条家伝来の宝刀
  • 書物に「なまづをとかやいふかたな」とあり、鯰尾造りの刀故の号とされる。
  • 浅原事件において浅原八郎為頼がこれで自害した。


浅原事件(あさはらじけん)  

  • 正応3年(1290年)3月9日に、浅原八郎為頼が起こした伏見天皇暗殺未遂事件。

浅原氏  

  • 浅原氏(あさはらし)は清和源氏の流れを汲む小笠原氏の庶流、または同じ甲斐源氏の武田氏流奈古氏の一族。あるいは五味氏流の一族ともいう。
  • 浅原氏は、弘安8年(1285年)に起こった霜月騒動によって所領を失い没落した。浅原八郎為頼は、息子である浅原光頼・浅原為継の二人とともに強盗になり、全国を廻ったという。

事件の推移  

  • 正応3年(1290年)3月9日の夜、浅原為頼は息子とともに騎馬で御所である二条富小路殿に乱入する。
  • 御所内にいた女嬬を捕まえて天皇の寝床を尋ねるが、女官はとっさの機転を利かし、違う場所を教え、隙を見て女官は天皇に事の次第を伝えた。

    其の九日の夜、右衛門の陣より、恐ろしげなる武士三、四人、馬に乗りながら九重の中へ馳せ入りて、上に昇りて、女嬬が局の口に立ちて、「やや」と言ふ物を見上げたれば、丈高く恐ろしげなる男の、赤地の錦の鎧直垂に、緋をどしの鎧着て、只赤鬼などのやうなるつらつきにて、「御門はいづくに御よるぞ」と問ふ。「夜の御殿に」といらふれば、「いづくぞ」と又問ふ。「南殿より東北のすみ」と教うれば、南ざまへ歩み行く間に、女嬬、内より参りて、権大納言の典侍殿・新内侍殿などに語る。

  • 伏見天皇は女装をした上で、三種の神器と皇室伝来の管弦2本(琵琶の玄象・和琴の鈴鹿)を持って脱出した。

    内侍、剣璽を取りて出づ。女嬬は玄象・鈴鹿取りて逃げけり。春宮をば、中宮の御方の按察殿抱き参らせて、常盤井殿へかちにて逃ぐ。

  • 浅原為頼らは天皇を探して御所内を彷徨ったものの、御所内の人々が騒ぎに驚いて逃れ去った後だったため天皇の居所を見つけることが出来ず、そのうちに護衛の兵に囲まれると免れ難しとみてそれぞれ自害した。

    御殿共の格子引きかなぐりて乱れ入るに、適はじと思ひて、夜の御殿の御褥の上にて、浅原自害しぬ。太郎なりける男は、南殿の御帳の内にて自害しぬ。弟の八郎と言ひて十九になりけるは、大床子の足の下にふして、寄る者の足を斬り斬りしけれども、さすが、数多して搦めんとすれば、適はで自害すとて、腸をば皆繰り出だして、手にぞ持たりける。

三条氏への嫌疑  

  • この時に浅原為頼が自害に使用した小さ刀が「鯰尾」といい、前参議三条実盛家の宝刀であった。そのため三条実盛に嫌疑がかかり、子の公久とともに六波羅武士に逮捕されてしまう。

    此の事、次第に六波羅にて尋ね沙汰する程に、三条の宰相の中将実盛も召しとられぬ。三条の家に伝はりて、鯰尾とかや言ふ刀の有りけるを、此の中将、日頃持たれたりけるにて、彼の浅原自害したるなど言ふこと共出で来て、中の院(ゐん)も知ろし召したるなど言ふ聞こえ有りて、心憂くいみじきやうに言ひあつかふ、いとあさまし。

  • 伏見天皇と関東申次の西園寺公衡は、三条実盛が大覚寺統系の公卿であることから、亀山法皇が背後にいると主張する。しかし持明院統の治天の君である後深草法皇は、こうした主張を退け、また亀山法皇も鎌倉幕府に対して事件には関与していない旨の起請文を送ったことで、幕府はそれ以上の捜査には深入りせず三条実盛も釈放された。
  • 「鯰尾刀」も三条家に戻ったとみられる。