骨不知

骨不知(ほねしらず)  

脇差
相州貞宗

  • 相州貞宗の脇差(短刀)

来歴  

  • 肥後熊本城主の細川忠利が、寛永15年(1638年)正月に島原の乱への出陣命令を受けた際に将軍家光より拝領したもの。

    十五年正月十二日、去年冬より賊徒等肥前国有馬の古城に楯こもるにより、去る朔日諸陣一時に兵をすゝめ、これを攻るといへども利あらずして、死傷するものすくなからずのよし、石谷十蔵貞清をよび豊後國の御目付より注進す。これによりて忠利等を彼地につかはさるゝのあひだ、縦令日数をかさぬるとも、凶徒を誅伐すべきのむね釣命をかうぶり、ほねしらずといへる貞宗の短刀をたまはる。
    (寛政重脩諸家譜)

  • 慶安4年(1651年)6月、忠利の孫綱利(六丸)が襲封の礼として、先代光尚の遺物である左文字の刀と共に4代将軍家綱へ献上している。

    廿七日(略)細川六丸襲封を謝して。(略)六丸は國行の太刀。(略)六丸は父肥後守光尚遺物左文字の刀。 骨不知の差ぞへ 。
    (徳川実紀)

    四年六月二十七日襲封を謝するのとき、父が遺物左文字の刀、骨しらずと號けし貞宗の短刀、をよび月磵が墨跡を献ず。
    (寛政重脩諸家譜)

    細川忠利の子、2代藩主細川光尚は寛永18年(1641年)に家督を継いだが、慶安2年(1649年)に31歳の若さで死去する。この時六丸(綱利)はわずか6歳であったため御家取り潰しの憂き目にあったが、細川家中が奔走しようやく免れた。正室には水戸藩初代藩主徳川頼房の娘犬姫(松平頼重の養女)を迎え入れている。

  • その後行方不明。
    明暦3年(1657年)に起こった明暦の大火で焼けた可能性があるが、罹災刀剣に出ている貞宗2本はすべて刀であり脇差(短刀)ではない。