飛雀

飛雀(とびすずめ)  

薙刀

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由来  

  • ある時この薙刀を杖に休息していると雀が薙刀にぶつかり、真っ二つになったという。それにちなみ名付けられる。

来歴  

  • 牧野康成の家臣疋田某所持の薙刀。
    牧野康成は家康家臣に同名の武将がいるが、後に大胡藩主となる方の牧野康成(従五位下右馬允)である。

持船城  

  • 駿河国持船(もちふね)城(現代は用宗(もちむね)城と表記)は、戦国時代今川家臣の一宮元実によって天文年間に築城された。駿府の南、海岸沿い標高70mほどの小高い丘陵上に建っており、東海道を抑える駿河防衛の重要な支城として重用された。今川義元の妹婿である関口親永らが城主を務めている。

今川氏の衰退と信玄の駿河侵攻  

  • 永禄3年(1560年)に桶狭間の戦いで敗れ今川氏は衰退する。さらに永禄10年(1567年)に信玄の嫡子義信が廃嫡され、義信の正室であった嶺松院(今川義元娘)は駿河に送り返されてしまう。
  • これにより甲駿関係は険悪なものとなり、信玄は永禄10年(1567年)末に駿河に侵攻した。持船城も武田軍に攻め落とされ、信玄はこの城に城代として三浦義鏡を入れる。さらに駿河湾に面した立地を活かすため、武田水軍に招かれた水軍向井正重らを付属せしめる。
    この永禄10年の駿河侵攻時は家康と密約を結んだ上でのものであり、大井川の東を武田が、また西は家康が抑えるというものであった。信玄は3度にわたって駿河に侵攻し永禄13年(1570年)に完全に駿河一国を支配下に置く。
    持船城は、この時代には海に面していたため、新しく湊が整備され現在のJR東海道線用宗駅付近が船溜まりとして使われたという。なおこの向井正重の孫が「向井国広」に名を残した船奉行向井忠勝である。

信玄の死と武田氏の衰退  

  • 駿河侵攻により破棄された甲相同盟であったが、元亀2年(1571年)にはこれを回復し、東側の手当を済ませた信玄は翌元亀3年10月に西上作戦を開始する。しかし元亀4年(1573年)信玄は病没する。
  • 信玄の死を確認した家康が駿河侵攻を行うが、信玄の後を継いだ武田勝頼は頻繁に駿河へ出兵し攻防を繰り返す。情勢が大きく変化したのは天正3年(1575年)の長篠の戦いで、武田軍は主要な家臣を数多く失い衰退する。

甲相同盟の破綻と駿河侵攻  

  • さらに天正6年(1578年)上杉謙信の死により越後で御館の乱が起こり、当初景虎方についていた武田が景勝方につき両者の間で甲越同盟が締結されると、武田北条間の甲相同盟は再び破綻する。
    武田勝頼の継室に、北条氏康の6女とされる北条夫人が嫁いでいる。勝頼も当初は、夫人の実兄である北条氏政の要請もあり、同じく夫人の実兄にあたる上杉景虎(氏康の七男という)を支持していた。
  • 北条氏は徳川家康と同盟を結び、北条・徳川両軍は武田領駿河への侵攻を開始する。

持船城合戦  

  • 天正7年(1579年)9月、徳川家康は牧野康成らにこの持船城を攻め落とさせている。武田方城代の三浦、向井らは揃って討死する。

    神君駿州ノ敵地ニ御雄ヲ進メラル、遠州牧野ノ城将松平甚太郎家忠、同周防康親、牧野右馬允康成ヲ先鋒トシ、庵原郡持船ノ城ヲ攻ラル、康成ガ勢一番ニ木戸を破ル。田水右衛門、徳増弥七、山本勝七等戦死ス。其外吾兵城ニ火ヲ放チテ是ヲ陥ス。城将三浦兵部義鏡ヲバ康親ガ臣岡田竹右衛門元次是ヲ討取る、(略)城中ノ物主向井伊賀勝政(正重カ)ヲバ星野角右衛門是ヲ討捕ル。雑兵モ四百余人命ヲ爰ニ殞ス

  • しかし翌天正8年には武田勝頼により奪い返され、今度は朝比奈信置が城代となっている。
  • その後、天正10年(1582年)織田信長の甲州征伐に合わせて進軍した家康軍により攻撃を受け、開城降伏。城代朝比奈信置は久能山に退き、持船城は廃城になったという。

薙刀「飛雀」  

  • この薙刀は、天正7年(1579年)9月19日の持船城での戦いにおいて、徳川方牧野康成の家臣疋田某が所持しており、城攻めの際に徳増某と陣の真っ先に立ちこの薙刀で奮戦するが討ち死にした。
  • 薙刀は家臣が持って帰り、子孫はこれを脇差に直して差料にしたという。