面影

  • 同名刀がある。
    1. 来国行作。長崎為基佩用、鳥取城主池田伝来
    2. 木曽義仲佩用、安則作
    3. 木村常陸介佩用、初代三善長道
    4. 会津藩主の枕刀
    5. 野田繁慶
Table of Contents

面影(おもかげ)  

大太刀
来国行
三尺三寸

  • 面影丸、面影ノ太刀
  • 長崎為基佩用

来国行 

  • 来国行は、依頼を受けて百日間精進して鍛え上げた。
  • 同時に二刀を造り、「面影(おもかげ)」と「鉋丸(かんなまる)」と名付け、「鉋丸」は北条高時に献上した。
  • 「面影」は、刀を抜くと人の顔が刀身にありありと映るのでその名を付けたといい、自ら秘蔵していたが、たっての願いで長崎為基に譲ったという。
    • 「鉋丸」と面影を等しくしているために「面影」と名づけたとも。
  • 依頼主は北条高時、長崎為基、長崎高泰など諸説ある。長崎氏についてはよくわからない点が多い。
  • 刃長は古剣書では三尺三寸とし、太平記では三尺四寸、四尺三寸となっているものがある。

由来  

  • 鎌倉時代末期、北条高時の執事長崎為基の佩刀。
  • 刀身に顔がはっきりと写ることから面影と名付けられた。

    為基が佩たる太刀は面影と名付て、来太郎国行が、百日精進して、百貫にて三尺三寸に打たる太刀なれば
    (太平記 鎌倉兵火事付長崎父子武勇事)

来歴  

  • 元弘3年(1333年)5月、長崎為基が佩用し新田義重の軍勢と戦う。
  • その後行方不明となるが、200年後の天文7年(1538年)には、小弓公方足利義明(古河公方足利政氏二男)が佩用している。
  • 足利義明は、天文7年(1538年)第一次国府台合戦で敗死した時の出で立ちが残っている。

    其日ノ奘束ニハ。赤地ノ錦ノ直垂ニ。桐ノ下金物打タル唐綾ヲドシノ鎧キテ。來國行三尺二寸ノ面影ト云太刀。二尺七寸赤銅作ノ重代ノ御太刀二振ハキテ。 法成寺ノ大長刀ヲクキ短ニトリ。 鬼月毛ト云名馬ニ 御紋ノ梨地ノ鞍置テ紅ノ大總カケ。
    (後鑑)

    • この時点で1寸磨り減っている
  • 江戸初期には池田輝政が所有していた。
  • 三男の鳥取城主池田忠雄に伝わり、寛永(1624)ごろ忠雄は自らの佩刀とするために磨上たという。
  • 池田吉泰の代のとき享保五年(1720)4月鳥取城での石黒火事で、面影は切刃貞宗などとともに焼身となるが、幕府のお抱え鍛冶角野寿見により再刃する。
  • しかし再度の出火により焼失してしまったという。




長崎為基  

  • 太平記では得宗被官長崎思元の子とし、系図纂要では高光(昌元)の子とする。
  • 勘ケ由左衛門尉と名乗ったというが、詳細はわかっていない。
  • 長崎一族は長崎円喜とその子長崎高資の父子が内管領となって幕政の実権を握るが、1333年(元弘3年/正慶2年)6月、新田義貞に鎌倉を攻められて幕府が崩壊し、北条氏一門とともに鎌倉東勝寺で自害して滅亡した。
  • 新田義貞から足利将軍家を経て小弓公方に伝わったのではないかと思われる。




同名の刀  

木曽義仲佩用  

  • 豊前神息の子、または豊後行平の弟子といわれる安則の作。
  • 木曽義仲の佩刀という。

木村常陸介佩用  

  • 家康が秀吉に献上したものを、関白秀次に下賜。
  • 秀次はそれを木村常陸介(重茲)に与えた。抜くと、人の顔がありありと映ったため「面影」と名付けられた太刀であったという。
  • 秀次が自刃した時、常陸介の妻は懐妊していた。
  • 常陸介は、懐妊していた妻に「生まれた子が男児ならばこの刀を与えよ」と言い残して追い腹を切ったという。妻は塙団右衛門を頼り、産み落としたのが木村重成であったという。
  • しかし木村重成の佩刀として面影は登場していない。

会津藩主の枕刀  

銘 陸奥大掾三善長道
金象嵌 延宝三年八月十一日 参ツ胴裁断 山野勘十郎久英(花押)
刃長二尺三寸六分

  • 初代三善長道の作
  • 藩主が参勤交代のおりのある夜、この刀が夢想の告げで火事を予告したため事なきを得たという伝説から名付けられた。

野田繁慶 

  • 野田繁慶の作で、中心に「面影」と金象嵌のある刀がある。