陸奥守吉行(刀工)

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陸奥守吉行(むつのかみよしゆき)  

江戸中期の刀工
土佐吉行

生涯  

  • 刀工吉行は、慶安3年(1650年)刀工森下播磨守吉成の次男として、摂津国住吉に生まれる。
  • 上野守吉国の弟。
  • 森下平助。
  • 山岡家の養子となり、のち父、兄とともに大坂の刀工初代大和守吉道に入門し、作刀を修行する。
  • 銘「陸奥守吉行」、「吉行」
  • 「陸奥守」を受領。

土佐藩  

  • 吉行は、元禄年間に土佐藩に招聘され、同藩の鍛治奉行となった。
  • はりまや橋に近い東種崎町(ひがしたねざきまち)の仕事場で鍛刀したという。

作刀  

  • 土佐藩出身の幕末の志士、坂本龍馬がこの「陸奥守吉行」の刀を愛用したことで知られる。




龍馬所用「陸奥守吉行」  


銘 吉行
坂本龍馬所用
二尺二寸
京都国立博物館所蔵

  • 竜馬が最後に使った「陸奥守吉行」は、京都国立博物館に現存する。

入手経緯  

  • この「陸奥守吉行」は、龍馬が21歳年長の兄である坂本権平に頼んで送ってもらったものである。
    司馬遼太郎の「竜馬がゆく」(昭和37年~昭和41年に産経新聞連載)では、竜馬が脱藩するときに次姉の栄(高名な乙女姉さんの上の姉)に頼み込み、陸奥守吉行を手に入れたとしている。しかし昭和63年(1988年)に柴田作佐衛門に嫁いでいた栄の墓が発見され、栄の没年が龍馬脱藩の17年前の弘化2年(1845年、龍馬10歳時)であることが明らかになり覆されている。
  • 竜馬は、死の前年となる慶応2年(1866年)12月に権平に手紙を出し、先祖伝来の刀で死にたいと郷士坂本家で所蔵していた「陸奥守吉行」を無心している。

    此頃願上度事ハ古人も在レ云、国家難ニのぞむの際ニハ必、家宝の甲を分チ、又ハ宝刀をわかちなど致し候事。何卒御ぼしめしニ相叶(あいかない)候品、何なり共被レ遣候得バ、死候時も(なお)御側ニ在レ之候(おもひ)在レ之候。何卒御願申上候。
    (慶応二年十二月四日 坂本権平あて)

  • 権平は西郷にことづけ、中岡を通じて届けている。
    この時期西郷は、島津久光の命を受け宇和島藩の伊達宗城、土佐藩の山内容堂を訪れ四侯会議に向けた地ならしを行っている。権平はこの時に西郷に渡したものと思われる。その後、海援隊設立や「いろは丸」受け取りなどで長崎にいたころの龍馬に渡ったと思われる。
    竜馬は、この時届けてくれた西郷の近習に対して、それまで指していた鈴木正雄二尺八寸二分を渡したともいう。
  • 慶応3年(1867年)3月ごろから吉行を使ったと見られ、6月24日の権平宛の手紙でその喜びを伝えている。

    然ニ先頃西郷より御送被レ遣候吉行の刀、此頃出京ニも常帯仕候。京地の刀剣家ニも見セ候所、皆粟田口忠綱位の目利(めきき)仕候。此頃毛利(アラ)次郎(恭助)出京ニて此刀を見てしきりにほしがり、私しも兄の(たまもの)なりとてホコリ候事ニて御座候。
    (慶応三年六月二十四日 坂本権平あて)

  • 死の数日前(慶応3年11月13日)と見られる陸奥宗光宛の手紙でも述べている箇所がある。

    一、さしあげんと申た脇ざしハ、まだ大坂の使がかへり不レ申故、わかり不レ申。
    一、御もたせの短刀は(さしあげんと申た)私のよりは、よ程よろしく候。(但し中心(なかご)の銘及形。)
     是ハまさしくたしかなるものなり。然るに大坂より刀とぎかへり候時ハ、見せ申候。
    一、小弟の長脇ざし御らん被レ成度とのこと、ごらんニ入レ候。
      十三日
                              謹言。
    陸奥老台(陸奥宗光
                             自然堂 拝

    • 三番目の「小弟の長脇ざし」が「陸奥守吉行」と見られている。「自然堂(じねんどう)」とは龍馬が晩年に使った号。
  • 最期の日も龍馬はこの「吉行」を携えていた。それにより、兄への手紙に「死候時も猶御側ニ在レ之候思在レ之候」と書いた通りになってしまった。

龍馬以後の来歴  

  • 龍馬の差した「吉行」は、のち長姉千鶴の息子高松太郎(坂本直、変名小野淳輔)が坂本龍馬の家督を相続したため坂本直(高松太郎)に伝わる。
  • 明治31年(1898年)に坂本直が死ぬと家督は二男坂本直衛が継いだが、遺品類は妻留が管理していたようである。その後、さらに鶴井の長女直意の婿養子で郷士坂本家の7代目当主となった坂本弥太郎(浜武弥平の次男)へと伝わる。
    【郷士坂本家】
    八平直足─┬権平直方───春猪─┬──鶴井    浜武弥太郎(坂本家養子)
         │          └兎美 │     ├────┬彌直
         │高松順蔵          ├───┬直井(直意)└直行
         │ ├──┬───坂本南海男直寛   ├直恵
         ├千鶴  │             ├坂本直道─────┬直臣(夭折)
         │    │             └勝清(土居家養子)└寿美子
         ├栄   │
         │    └[長男]直(高松太郎、小野淳輔)
         ├乙女     ├──┬坂本直樹(夭折)
         └龍馬    瀬田留 └坂本直衛
    
  • 明治37年(1904年)に浦臼聖園小学校で坂本龍馬遺品展が開かれている。この時、本刀「陸奥守吉行」のほか、血染めの掛け軸、紋服など多数の遺品が展示された。
  • 明治43年(1910年)8月30日付で、坂本弥太郎氏が留に書いた預かり証にも「吉行」は登場する。

    吉行:刀キズノ鞘付キ束ナシ

    この時点では刀傷のついた鞘もこの時現存していたが、ただし柄は失われていた。

  • 坂本弥太郎は明治38年(1905年)に釧路で坂本商会を創業するが、大正2年(1913年)12月26日に釧路で大火事が起こり、ここで竜馬の遺品を焼失している。

京都国立博物館へ寄贈  

  • この釧路の大火事で坂本家にあった「陸奥守吉行」も焼けてしまうが再刃され、昭和6年(1931年)に恩賜京都博物館(現京都国立博物館)に寄贈された。弥太郎氏は寄贈の前年10月に目録を書いており控えが残る。
    なお、従来この時に再刃したと書物等に書かれていたが、刃取りをしただけであったことが最近の研究で明らかになったという。
  • この"弥太郎氏による昭和5年作成の寄贈目録控え"が、2015年に遺族が寄贈した遺品の中から発見され、大火事の際に無反りになってしまったこと、鞘は焼けてしまったことが記されている。

    一、長刀「吉行」 在銘
    依ルニ大正二年十二月二十六日北海道釧路市大火ノ際全市ト居住セシ坂本家類焼ト共ニ此刀モ亦罹災ス刀身ノ無反リとナリタルハ焼ケタル結果也、約八寸ノ裂ケ目アリタル鞘ハ消失セリ

    スミス&ウエッソン社製第I1/2ファースト・イッシュー22口径の5連式ピストルもこの時焼けている。

    この写しが信用されるのは、弥太郎氏の性格による。この文書を残した坂本弥太郎氏は大変に几帳面な性格だったようで、重要な手紙や覚書などについてはカーボンで複写して手元に残していた。その結果、様々な龍馬遺品の異動状況が明らかになることとなった。たとえば京博に寄贈した龍馬遺品目録なども京博には現存せず、弥太郎氏の控えにより新たな事実も明らかになっている。詳細は「坂本龍馬」の項参照

  • ちなみに、この坂本弥太郎氏の次男が、画家で六花亭製菓の包装紙のデザインを手がけたことでも知られる坂本直行氏である。
  • 龍馬所用の「陸奥守吉行」は、現在京都国立博物館所蔵。
    2016年5月10日、京都国立博物館は同館所蔵の「陸奥守吉行」が龍馬が近江屋で暗殺された際に携えていたものの実物であることを確認したと発表した。




その他の吉行  

  • なお、故郷である高知の坂本龍馬記念館と北海道坂本龍馬記念館にも吉行の刀が展示されている.

高知:坂本龍馬記念館所蔵  


銘 陸奥守吉行
二尺二寸(66.7cm)
坂本龍馬記念館所蔵

  • 最後に所持していた京都国立博物館所蔵のものとは別の吉行で、龍馬所持ではないもの。元は刀剣研究家の小美濃氏が所持していたもので、後に坂本龍馬記念館に寄贈された。同館で常設展示されている。

函館市:北海道坂本龍馬記念館  

脇差
銘 陸奥守吉行
刃長45.2cm、反り1.2cm
北海道坂本龍馬記念館所蔵

  • これも同様に最後に所持していたのとは別の吉行で、龍馬所持ではないもの。