鎌田魚妙

鎌田魚妙(かまた なたえ)  

江戸時代後期の武士
刀剣研究家

  • 新刀弁疑(しんとうべんぎ)」を著し、新刀の定義を決定づけた。

生涯  

  • 鎌田魚妙は伊予喜多郡長浜町の櫛生三島神社の神官鎌田正広の子として享保12年(1727年)に生まれた。
  • 幼名源吾、三郎太夫。
  • 20歳の時に知恩院家司の三善善長を頼って上京し、公卿の西洞院時名に仕える。
    西洞院家は高棟王流・桓武平氏の流れをくむ公家で、家格は半家。時名は桃園天皇に仕え、のち竹内式部に師事し尊王思想を学ぶ。
  • のち三善善長の養子となり十河(そごう)源吾魚妙と改名する。
  • その後、公卿の桜井氏福に仕え、氏福の弟貞麿の傅役となっている。のち貞麿の江戸行きに同行し貞麿の叔母にあたるという大奥年寄の松島局と会っている。
    桜井家は藤原北家水無瀬流、羽林家の家格を有する公家。桃園天皇に仕え、氏福はのち竹内式部に師事し尊王思想を学ぶ。西洞院時名の母が、桜井氏福の祖父桜井兼倶の娘にあたる。
  • 西洞院時名や桜井氏福らは、神道や国学を熱心に修めたためにこれが尊王論者による運動とみなされ、宝暦8年(1758年)朝幕関係の悪化を憂慮した時の関白一条道香らにより罷免・永蟄居・謹慎などの処分をくだされてしまう。(宝暦事件、竹内式部一件)
  • この時、魚妙も江州信楽に閉居の身となり、その縁からか近衛家領代官であった多羅尾代官陣屋の多羅尾光豊に仕えることになる。
  • その後、西洞院時名の子の時義と、前橋藩主松平朝矩の娘茂登との間に縁談の話が持ち上がり、これを代官としてうまく取り持ったことから魚妙は松平家に仕えることとなった。
  • 松平家は明和4年(1767年)に藩庁を前橋から川越に移しているが、魚妙もそれに従い、またこのころ旧姓である鎌田魚妙に戻している。
  • 鎌田魚妙川越藩江戸藩邸に務める傍らで刀剣研究に打ち込み、安栄7年(1778年)に「新刀弁疑」を出版にこぎつけている。
  • また晩年寛政8年(1796年)には「本朝鍛冶考」を著している。

系譜  

  • のち、鎌田魚妙の子である真鰭(まひれ)が押形のみを抜粋し、天明7年(1787年)に「新刀弁疑略」を出版している。