鉈切当麻

鉈切当麻(なたぎりたいま)  

  • 享保名物帳所載

    鉈切当麻 無銘一尺三寸一分 代千五百貫 井伊掃部頭殿
    由緒知れず、佐野修理太夫殿家に前々より在り、鵜首造り長刀樋副樋少すり上、忠先に正和と残る、右慶安四の極め。

  • 詳註刀剣名物帳

    佐野の家傳は前に註せり、この刀いかにして井伊家に来りしか其も本文に記さず。

来歴  

  • 来歴には二説がある。
  1. 佐野説:下野佐野城主佐野家に昔より伝来したという。
  2. 井伊説:享保ごろ彦根井伊家にあった。


佐野家伝来説  

  • 名物帳に「佐野修理太夫殿家に前々より在り」とあることにちなむ。さらに本阿弥光瑳も「佐野修理殿にある」と書いている。
  • この佐野修理とは佐野信吉(富田一白の五男)のこと。天正20年(文禄元年:1592年)に佐野房綱の養嗣子となって佐野政綱と名を改め、家督を継いだ。後年、豊臣秀吉より「吉」字の偏諱を受け信吉と改める。
  • 石田三成と不仲であったとされ、関ヶ原では東軍に属し本領安堵されるも、慶長19年(1614年)3月に江戸で火災が起きた際、下野佐野から江戸へ駆けつけ消火活動を行ったことが逆に仇となり、豊臣恩顧の大名が至近距離にいることの危険性を露呈してしまう。
  • 伊予宇和島藩主であった実兄の富田信高(富田一白の長男)が、坂崎直盛の家臣を殺した宇喜多左門(直盛の甥)を隠蔽したことで直盛との間に争いを起こしてしまい、同年7月に改易となる。この時に佐野信吉も大坂方内通の疑いをかけられ嫡男の久綱とともに信濃松本藩に預かりの身となった。
  • 鉈切当麻の行方は不明。


井伊家伝来説  

  • 本阿弥光寿の実父、利安の話によれば、彦根藩2代藩主井伊直孝(井伊直政の次男)の時代に領内の百姓が所持していたため召し上げたという。
  • それによると、かつて百姓の家に泥棒が鉈をもって押し入った際に、この刀で切りつけ鉈にあたり刃こぼれができたという。
    つまりこの伝来が事実であれば佐野家伝来の鉈切当麻とは別物の可能性が高い。
  • 慶安4年(1651年)7月以降の本阿弥家の留帳では、井伊家から鑑定に出され千五百貫または七十五枚の折紙となっている。
  • その時もなお、刀区より四寸余りのところに刃こぼれが残っていたという。
  • 寛文元年(1661年)の記録では、国元彦根城本丸土蔵に納められていた。鞘は黒塗り、柄は鮫に黒塗、目貫は赤銅色絵の仙人図、小柄も同図。縁、鍔も赤銅で揃えられていた。
  • さらに後、「荒波一文字今荒波)」を大刀とした拵えが二度製作されている。最初は享保から安永ごろで、二度目は11代井伊直中の時である。
  1. 【一度目】:享保~安永ごろ。鉄地に色絵で鉈に網図の鍔、三所物に近江国友村の彫金師臨川堂充昌作の木賊に鎌の図となっている。
  2. 【二度目】:11代井伊直中の代。信家作の鉄地で鉈に千鳥透かしの入った木瓜丸形の鍔、目貫は赤銅地に表は「鉈」「切」、裏には「当麻」の色絵、小柄に「正四位上左中将」、笄に「開国の元勲」の文字を入れている。