足利義満

足利義満(あしかがよしみつ)  

室町幕府三代将軍
幼名は春王
左馬頭、征夷大将軍
参議左中将、権大納言右大将、兼右馬寮御監
内大臣、左大臣、太政大臣
准三宮

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生涯  

  • 父は二代将軍足利義詮。母は石清水神官善法寺通清の娘の紀良子。
    母の紀良子は順徳天皇の玄孫に当たり、その姉妹である仲子崇賢門院は後円融天皇の生母。義満は母系で順徳天皇5世の孫であり、同時に後円融天皇の従兄弟という二重の意味で皇族と縁戚関係にあった。
  • 幼名は春王。
  • 正平16年(1361年)義満4歳のとき、細川清氏や楠木正儀、石塔頼房ら南朝軍の入京により、義詮は後光厳天皇を奉じて近江に逃れる。この時義満はわずかな家臣に守られて建仁寺に逃れた後、一時赤松則祐の居城播磨白旗城に避難している。
  • 正平21年(1366年)9歳で後光厳天皇から「義満」の名を賜る。

3代将軍  

  • 正平22年(1367年)父義詮の病死後10才で家督を継ぎ、室町殿となる。翌応安元年将軍に就任した。正五位下・左馬頭に叙任される。
  • 正平23年(1368年)には管領細川頼之を烏帽子親として元服する。その後も管領細川頼之の補佐を受ける。
  • 正平24年(1369年)に征夷大将軍宣下を受ける。
  • 細川頼之は応安大法を実施して土地支配を強固なものにし、京都や鎌倉の五山制度を整えて宗教統制を強化した。また南朝最大の勢力圏であった九州に今川貞世(了俊)・大内義弘を派遣して、南朝勢力を弱体化させ幕府権力を固めた。
  • 天授4年(1378年)には邸宅を三条坊門より北小路室町に移し、幕府の政庁とした。移転後の幕府(室町第)はのちに「花の御所」と呼ばれた。
  • また朝廷と幕府に二分化されていた京都市内の行政権や課税権なども幕府に一元化するとともに、守護大名の軍事力に対抗しうる将軍直属の常備軍である奉公衆を設け、さらに奉行衆と呼ばれる実務官僚の整備をはかっている。

将軍親政  

  • 1379年(天授5年/康暦元年)、反頼之派の守護大名斯波義将や土岐頼康らに邸を包囲され、細川頼之の罷免を要求される(康暦の政変)。頼之に対しては追討令が下されるが、翌年には赦免されて宿老として幕政に復帰している。
  • 1390年(元中7年/明徳元年)土岐頼康の死後、分裂して争う土岐氏の内紛につけ込んで土岐氏を討伐する(土岐康行の乱)。さらに1391年(元中8年/明徳2年)には山名氏の内紛に介入し、11か国の守護を兼ねて「六分一殿」と称されていた有力守護大名山名氏清を挑発して挙兵させ、同年12月に討伐する(明徳の乱)。

朝廷政治  

  • 朝廷の長老である二条良基の教導により朝儀にも精通し、天授4年(1378年)4月に権大納言、9月に右近衛大将兼任、翌天授5年(1379年)1月には従二位に昇叙、翌年に従一位、内大臣と昇進を重ね、弘和2年(1382年)には左大臣・右近衛大将に任じられる。この年には蔵人別当兼務し牛車を許されている。
  • 1383年(弘和3年/永徳3年)2月には武家として初めて源氏長者、淳和奨学両院別当兼務し、7月には准三宮宣下を受け、名実ともに公武両勢力の頂点に上り詰めた。

南北朝合一  

  • 南朝勢力が全国的に衰微すると、1392年(元中9年/明徳3年)には大内義弘を仲介に南朝方と交渉を進め、58年分かれていた南北朝合一を実現する。
    1. 南朝の後亀山天皇より北朝の後小松天皇への「譲国の儀」における神器の引渡し
    2. 持明院統と大覚寺統が交互に即位する(両統迭立)
    3. 国衙領を大覚寺統の領地とする
    4. 長講堂領を持明院統の領地とする

出家後  

  • 永徳2年(1382年)には開基として相国寺の建立を開始し、翌年には自らの禅の修行場として塔頭鹿苑院も創建する。
  • 応永元年(1394年)、征夷大将軍を辞職し、将軍職を嫡男の足利義持に譲って隠居する。同年太政大臣に転任し、その後は太政大臣として朝廷内でも権力を奮った。翌年には出家して道義と号した。
  • これにより、征夷大将軍として武家の頂点を、さらに太政大臣・准三后として公家の頂点に達した義満の権力は絶大なものとなっていた。
  • さらに応永2年(1395年)には九州探題として独自の権力を持っていた今川貞世を罷免、応永6年(1399年)には西国の有力大名大内義弘を挑発し、義弘が堺で挙兵したのを機に討伐(応永の乱)、西日本で義満に対抗できる勢力は排除された。

勘合貿易と北山文化  

  • 応永8年(1401年)、「日本国准三后源道義」の名義で博多の商人肥富と僧祖阿を使節として明に派遣する。建文帝は義満を日本国王に冊封し、両国の国交が正式に樹立された。
  • 出家後、応永4年(1397年)に西園寺家から京都北山の「北山弟」を譲り受け、舎利殿(金閣)を中心とする山荘を造営した。この山荘は「北山第(きたやまてい)」または「北山殿(きたやまどの)」と呼ばれ、後の鹿苑寺となった。
  • 応永6年(1399年)春以降、義満は本格的にこの山荘に移り住み、いわゆる北山文化を開花させた。
  • 応永15年(1408)薨去、享年51。


名物  

北山行幸  

  • 応永15年(1408)に後小松天皇が北山に行幸した際に、義満が自慢の名物を並べて饗応している。
  • 名物は茶器や墨跡など広範囲に及んでいるが、その中で刀剣類は次のように書かれている。

    静が持ちし小長刀、宗近が作なり。佐々木の縄切丸、能登守教経の青海丸、御当家累代の篠作、畠山清丸并雲山寶壷、一色家虎骨丸、六角家の甚宗の寶壷并龍尾。扨又御所の御秘蔵と聞えしは、八幡太郎義家より御傳の、飮見といふ甲冑、其外漢家本朝の名物、此時一も出でずといふ事なし、依つて多く記し漏らすなり。

  1. 静御前の薙刀:静が持ちし小長刀、宗近が作なり
  2. 【縄切丸】:佐々木の縄切丸
  3. 【青海丸】:能登守教経(平教経)の青海丸
  4. 二つ銘則宗:御当家累代の篠作
  5. 【清丸】:畠山清丸并雲山寶壷
  6. 【虎骨丸】:一色家虎骨丸
  7. 【龍尾】:六角家の甚宗の寶壷并龍尾

可然物  

  • 宇都宮三河入道に命じて将軍家から下賜するにしかるべき刀を選ばせたもの。

    人に御太刀を下さるをば、諸侍重代にもすべきか、然るに物のきれざらんを可被下事、不可然之間、可然物を記し申すべし

  • 宇都宮三河入道は、その場で備前53工、備中7工を挙げたという。※刀工名一覧は「可然物」の項参照


関連項目