赤小豆粥

赤小豆粥(あかあずきがゆ / あずきがゆ)  

上杉謙信の刀

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由来  

  • 不明。
    地方により、脳または頭蓋骨を「なずき」と呼ぶという。これがなまったもので、脳天割をした刀に対する異名の可能性もある。
  • 上杉方の軍記物で上杉謙信が武田信繁を斬った際の逸話において、「異名を赤小豆粥と號し」と登場する。つまりこの場合「典厩割」の異名である。
  • なお上杉家には「小豆(あずき)」と異名の付く「竹俣兼光」がある。いつの時代かにこの逸話と混同した可能性がある。さらに、立花宗茂の「波泳ぎ兼光」でも「小豆兼光」という名前が登場する。
  • しかし「典厩割」は無銘、「竹俣兼光」は刀工兼光による長銘が入り、「波泳ぎ兼光」も大摺上無銘だが小早川秀秋による金象嵌が入ることからすべて別物であると考えられる。


典厩割  

  • 武田信繁を斬ったという刀「典厩割」の逸話に登場するもの。

    此時謙信の太刀、備前長光二尺五寸、赤胴作りに候、只今当家に相伝有之候、異名を赤小豆粥と號し候、是れ天文廿三年甲寅八月十八日なり、謙信太刀に切込有之候
    (上杉将士書上)

    此時謙信の太刀、備前長光二尺五寸赤銅作、今に当家に相伝へ有之、異名を赤小豆粥と號すと云々、右天文廿二年霜月廿八日、川中島下米宮合戦は第一度なり
    (北越耆談)

  • どちらかが参照したのか年月以外ほぼ同じ文意となっている。刀については全く同じで、「備前長光」の作であり、刃長「二尺五寸」、「赤銅作」であり、異名を「小豆粥と號す」となる。
  • なお両方共「備前長光」となっているが、同じ場面を描く「謙信記」では次のように書かれており、長光なのか兼光なのかがあいまいである。

    長光兼光とも申し候長さ二尺九寸の刀を下げ、

  • ただし現存する典厩割は「無銘 伝国宗」となっている。


竹俣兼光  

  • また別の文献では、いずれも「竹俣兼光」の逸話が語られる場面で登場する。

    謙信の許に赤小豆粥竹俣兼光、谷切とて三の刀あり。竹俣兼光は、もと越後の百姓持ちたりしに、(略)又或時大豆を袋に入れて帰るさに、袋の綻より一粒づゝこぼれけるが、鞘にあたりて二ツに成りしかば怪しみ見しに、鞘のわれて刃は纔に出たりしに当し故なり。
    (常山紀談)

    上杉謙信の太刀に、赤小豆粥〈鎌倉行光三尺一寸川中嶋にて信玄と太刀打の時の太刀、竹股兼光、谷切〈來國俊ノ作也〉と云て三腰有り
    (武辺咄聞書)

  • こちらも内容はほぼ同じで、上杉謙信の佩刀に次の三刀があり、そのうち竹俣兼光について語る場面である。※後者には豆が落ちて割れたというエピソードがない。
  1. 赤小豆粥:鎌倉行光三尺一寸川中嶋にて信玄と太刀打の時の太刀也(典厩割
  2. 竹俣兼光兼光
  3. 谷切:來國俊ノ作也
  • つまり、「赤小豆粥」と「竹俣兼光」は別物である。
    上の文献では備前長光か備前兼光かで揺れていた「典厩割(異名 赤小豆粥」が、ここでは「鎌倉(相州)行光」となっており、刃長も「三尺一寸」と伸びている。なお上記「典厩割」での文献によれば、まず信玄と太刀打ちした後、そこに駆けつけた弟の信繁と太刀打ちをするという流れになっている。


波泳ぎ兼光  

  • 江戸時代に柳川藩主立花家に伝わった「波泳ぎ兼光」は、元は上杉謙信が所持するところの「小豆兼光」であり、それが景勝の時代に宇喜多秀秋(羽柴岡山中納言、金吾中納言)に伝わりそこで「波泳ぎ」の異名が付き、その後立花家に相伝したという。

    右は往古上杉謙信秘蔵の道具也、上杉家にては小豆兼光と申重宝にて有之候処景勝時代羽柴岡山中納言、依所望、彼家に相渡波游を改有之候由、其後年数経払物にて被為召候由