血吸いの剣

血吸いの剣(ちすいのけん)  

短刀
伝 弘法大師作
刃長六寸二分五厘

  • 中心に「宝剣」と金象嵌。
  • 鎺、切羽、鍔、縁頭、鯉口、逆輸、小尻、目貫はすべて金無垢。鞘は金梨地という豪華なものであったという。

来歴  

  • 島津家14代の島津勝久は、11代当主島津忠昌の三男ではじめ頴娃氏の名跡を継いでいた。

14代島津勝久  

  • 父である忠昌長男の12代島津忠治は永正12年(1515年)に陣没、次男の13代島津忠隆は永正16年(1519年)に死去。これら兄達の死により三男の勝久が16歳で宗家を継いだが権力基盤は脆弱であった。
  • 分家薩州家の島津実久からの横槍が続く中、大永6年(1526年)には有力分家である伊作家の日新斎島津忠良(伊作忠良)の長子、島津貴久を養子に迎え、伊作に隠居する。

復権  

  • しかしこれに反発した薩州家の島津実久が15代の貴久を追い落とし、再び勝久を守護に据える。諌める一族の説得を聞き入れず、勝久は島津一族を敵に回してしまう。
  • 天文3年(1534年)に寵臣を殺害され、翌天文4年(1535年)に島津実久に薩摩を追われると、島津勝久は母方(大友政親の娘)の大友氏を頼り、豊後へ亡命した。

勝久死後  

  • 天正元年(1573年)10月15日に勝久が豊後で客死すると、勝久の孫である秀久は剃髪して恕世と称し、日向庄内松山の蓮華院住職となった。
  • このとき、出家の身に刀は不要であるため、祖父より相伝した三刀を島津貴久の子、16代当主義久に贈っている。
  • 刀は、本刀のほか、八幡住の太刀、般若の剣、宗近の太刀などであったという。
  • その後島津家の重宝となる。
  • 太平洋戦争の際に焼失。