茶臼割

茶臼割(ちゃうすわり)  

太刀
備前長船長光の作
刃長三尺三寸

来歴  

  • 上野吾妻郡三原の地頭で、海野氏の一族であった羽尾家の重代の太刀
    海野氏は信州滋野氏の一族で、清和天皇の第4皇子貞保親王が信濃国海野庄に住し、その孫の善淵王が延喜5年(905年)に醍醐天皇より滋野姓を下賜され滋野善淵を名乗ったことに始まるとされる。海野の姓は摂関家の荘園であった海野荘にちなむという。真田氏はこの海野氏の一族であり、真田幸隆(幸村の祖父)が海野氏の名跡を継いだともいう。
  • 永禄7年(1564年)正月7日、国府台の戦い(第二次)で、羽尾幸光(幸世とも)・輝幸の兄弟はこれを履いて出陣している。しかし戦いに敗れ幸光は自害、弟の輝幸(海野照幸とも)がこれを持ち逃げ延びた。
  • 天正6年(1578年)、上杉謙信が死ぬと後継者争いで御館の乱が起こり、その後甲越同盟が成立する。沼田城は北条家が支配し、猪俣邦憲、金子泰清らが城代になっている。
  • 天正7年(1579年)9月、真田昌幸が調略を仕掛け、矢沢頼綱が沼田に攻め入って無血開城させ、沼田城は武田氏の支配下になる。
  • 天正8年(1580年)には羽尾輝幸は沼田城代になっている。
  • 天正9年(1581年)、謀反の疑いをかけられ、沼田城を真田幸隆の子である真田信尹が急襲し、敵しがたいと見た羽尾輝幸は城を抜けて落ちようとする。

    輝幸は家重代の茶臼割と云ふ三尺三寸の太刀を佩き、緋縅の鎧に鍬形打たる甲の纓をしめ、七寸餘の市城黑の馬に鞍置て打乗、眞先に嫡子中務大輔、家臣壯村山城、小櫻縅の鎧を着し、葦毛馬に貝鞍をかせ沼田打の三尺五寸の太刀を帯し、大長刀を打かたげ、妻子を伴ひ、父に五反計引下がり、関東に隠なき吾妻折田の住人佐藤将監が猶子佐藤軍兵衛尉を相伴ひ、静にこそ退れたり。

  • そこに田口又左衛門というものが追いすがってきたためこの「茶臼割」で斬り捨て、さらに早業の達人として知られた木内八左衛門が二尺八寸の太刀で斬りかかってきたのも梨割にしたという。
  • それでもなお追手が来たため、脱出しがたいと見た照幸は、嫡子の幸貞と刺し違えて死んだ。
  • 73歳であったという。

茶摩破(ちゃがまわり)  

  • 異名を「茶摩破(ちゃがまわり)」ともいう。

    然れども木の内の刀は二尺八寸、海野太刀は三尺三寸殊に茶摩破とて異名あり、備前長光