聖徳太子


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 聖徳太子(しょうとくたいし)

飛鳥時代の皇族で政治家
厩戸皇子
敏達天皇3年(574年)1月1日~推古天皇30年(622年)2月22日
用明天皇の第二皇子で、母は欽明天皇の皇女穴穂部間人皇女

  • 「聖徳」は諡号
  • 大宝令の注釈書「古記」(天平10年、738年頃)には、「上宮太子の諡号を聖徳王とした」とある。
  • 現在広く称される「聖徳太子」という呼称は、死後に贈られる諡号であり当然ながら生前にはなく、没後100年以上を経て天平勝宝3年(751年)に編纂された「懐風藻」が初出と言われる。
Table of Contents

 兼知未然

  • 日本書紀には「兼知未然(兼ねて未然を知ろしめす、兼ねて未だ然らざるを知ろしめす)」とある。この記述は後世に「未来記(日本国未来記、聖徳太子による予言)」の存在が噂される一因となった。
  • 平家物語巻第八に「聖徳太子の未来記にも、けふのことこそゆかしけれ」とある。また、太平記巻六「正成天王寺の未来記披見の事」には楠木正成が未来記を実見し、後醍醐天皇の復帰とその親政を読み取る様が記されている。

 忍者

  • 秦の河勝(香具師の祖)、服部氏族(伊賀忍者の祖)、大伴細人(きびと、さいにゅう。甲賀忍者の祖)らの忍者を使ったという。
  • 当時は志能便(しのび。主人によき便り、謀報をもたらすべく志ぎす者の意)とも呼ばれた。
  • 太子は、伊賀忍者が祖と仰いでいたという御色多由也(御弓路太夫おゆろたゆや)も使ったという。

 墓所

  • 大阪府南河内郡太子町の叡福寺(えいふくじ、上之太子)。
    • 穴穂部間人皇女(太子の母)と膳部菩岐々美郎女(太子の妃)を合葬する三骨一廟。
  • 直径約55メートルの円墳で、墳丘の周囲は「結界石」と呼ばれる石の列によって二重に囲まれている。
  • 日本仏教の開祖として信仰を集め、空海・良忍・親鸞・日蓮・一遍などがこの墓所を訪れたことを記している。さらに明治12年(1879年)には宮内庁により学術調査が行われた。
  • しかし天正2年(1574年)10月22日に織田信長の兵火を受け、古代の建物は現存しない。慶長年間(1596年 - 1615年)、後陽成天皇の勅願により豊臣秀頼が伽藍を再興した。
  • 現在は、豊臣秀頼により慶長8年(1603年)に再建された聖霊殿(せいりょうでん)と、承応元年(1652年)再建の多宝塔が重要文化財に指定されている。

 太子廟の七不思議

  1. 樹木が生い茂った御廟内には、松や笹が生えない。
  2. 鳥が巣を造らない。
  3. 大雨が降っても御廟の土が崩れない。
  4. 御廟を取り巻く結界石は何度数えても数が合わない。
  5. メノウ石に太子の御記文が彫られたものが、太子の予言どおりに死後430年後(天喜2年(1054年))に発見された。
  6. 御廟も西にあるクスノキは、母后を葬送したときに、太子自らがかついだ棺の轅(ながえ)を挿したものが芽をふき茂った。
  7. 寛平6年(894年)、法隆寺の康仁大徳が御廟内を拝見した時、太子の着衣は朽ちていたが、その遺骸は生きているように温かくやわらかだった。

 聖徳太子はいなかったのか

  • 生前に「聖徳太子」と呼ばれていなかったことをもって、「聖徳太子と呼ばれた人物はいなかった」とする議論がある。
    名前以外に、聖徳太子の功績とされている事績について、「聖徳太子」と呼ばれている人物が行ったのか否かについても議論が行われている。また紙幣などでおなじみの肖像についても議論があり、少なくとも衣装については太子存生の時代のものではないことが指摘されている。
  • ただし、古来身分の高い人に対してその本名(諱)で呼びかけることは憚られるものであり、その意味においては歴史上(およそ江戸時代まで)の偉人で生前から諱や諡号で呼ばれた人物はほとんどいない。
    例えば西郷隆盛は、同じ薩摩藩の人間からは有名な「西郷(せご)どん」あるいは「吉之助さぁ」などと呼ばれていた。そもそも諱の「隆盛」自体が西郷の実父の諱であったものが誤用されて定着したものである(本人の元服時の諱は隆永)という事実自体が、諱が一般的に知られていないという事を表している。坂本龍馬の諱は直陰、後に直柔であるが、龍馬で通っていたことは有名である。
  • 歴代天皇の名前は例外を除いて死後に贈られた「諡号」であり、生前は古くは「帝(みかど)」、あるいは「今上(きんじょう)」「当今(とうぎん)」と呼ばれるのみであり、これは現在でも続いている。
    もっといえば神武や仁徳、雄略などといった有名な天皇の諡号は、8世紀の官僚淡海三船により第44代元正天皇まで一括で贈られたものとされる。異説あり。また「天皇」号自体が天武朝の頃に始められたものであり、それまでは「大王(おおきみ)」と呼ばれていた。
  • 実際にはさらに憚って、人物そのものではなく「禁裏(きんり)」「内裏(だいり)」「御所(ごしょ)」などその住まいを表す名称で呼ばれていた。これは現在でも同じで、明治に一世一元の制がしかれた後も、今上天皇を諡号で呼ぶことは当然ながら行われない。
  • 第31代用明天皇の第二皇子であった厩戸皇子(聖徳太子)も、当然ながら生前に聖徳太子と呼ぶ人物などおらず(そもそも生前には聖徳という諡号が存在しない)、正しくは「厩戸豊聡耳皇子(うまやどのとよとみみのおうじ)であり、面と向かっては「皇子(みこ)」(厩戸皇子)などと呼ばれていたと思われる。
  • これは身近な例で考えれば、自分の会社の社長や、校長先生を「ヤマダさん」「タロウさん」などと呼びかける人がいないのと同じである。日本では現在も、職位が上がるにつれ役職をもって呼ばれるようになる。しかしだからといって「”ヤマダ社長”、”ヤマダ校長”」は居ない(居なかった)」などという人はいない。もしいるなら、それはよほど日本の生活習慣に馴染んでいない人だろう。
  • もし「聖徳太子」を生前にそう呼ばれていなかったからと言って「厩戸皇子」に変えるのであれば、歴代天皇や歴史上の偉人もすべて諱ではなく当時の役職名などで表されるべきという話になってしまいかねない。
    • 諡号」および「仮名」の項を参照のこと。

 関連項目


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