織田信長

織田信長(おだのぶなが)  

幼名吉法師
尾張国古渡城主織田信秀の嫡男
上総守、上総介
戒名「総見院殿贈大相国一品泰巌大居士」
神号「建勲」
正二位、右大臣。右近衛大将(贈正一位)
右府殿、総見院殿

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名物  

織田家伝来  

  • 父信秀所持として、秀吉に与えた国次、長船景光と見える無銘刀に「織田弾正忠信秀磨上之」、備前長船法光作の脇差に「主信秀」と切りつけたものがある。

分捕品など  

  • 中でも信長は光忠の豪壮な華やかさを愛し、生涯で25振りの刀を集めたという。※28、32など諸説あり。

    信長公天下を治め玉ふ頃、光忠の刀を好て、二十五腰を集め給ふ、或時安土の御城の堺衆被参けるに皆々天守に被召、御茶を下さる

家臣へ与えた刀  

  • 織田家伝来として、父信秀の差料だった国次(来国次か)を天正9年(1581年)の暮れに秀吉に与えている。
  • 前田利家に”桶狭間”の太刀を与えたという。元亀4年(1573年)には大郷を荒木村重に、天正6年(1578年)には秘蔵の左文字を安部二右衛門へ、天正7年(1579年)には鉋切長光丹羽長秀に与えている。

    十二月三日の夜、古谷野御陣所へ二右衛門(安部良成のこと)又伺候申し、右、難儀の仕合せ一一言上候処、最前の忠節よりも一入神妙の働き、御感に御惇しめさるの由候て忝なくもさゝせられ候、御秘蔵の左文字の御脇指下され并に御馬皆具共に拝領

  • 子どもたちへは、天正3年(1575年)曽我五郎所持という「星切太刀を信忠へ、天正9年(1581年)には正宗を信忠、北野藤四郎を信雄、鎬藤四郎を信孝へそれぞれ与えている。天正10年(1582年)武田家打倒の褒賞として、「荒波」を信忠へ与えている。
  • 天正3年(1575年)2月3日に甥の津田信澄を大溝城主に封じた際に、織田家伝来の刀とともに「八樋正宗(やつびまさむね)」を与えている。のち信澄自害と共に行方不明。
  • 甲州攻めの際、信忠が滝川一益に粟田口吉光の短刀を与え、信長も刀を与えたという。

その他  

名物一覧  

  • 書物に登場する名物
    • 信長公記:太田牛一
    • 信長記:小瀬甫庵
    • 茶会記:「天王寺屋会記」の「宗久他会記」、天正八年(1580年)二月二十二日の記事
名称信長
公記
信長
茶会
備考
義元左文字義元から分捕り
不動国行松永弾正から進上、羽柴筑前に下賜
薬研藤四郎[脇差]松永弾正から進上
鉋切長光珠光茶碗の代わりに丹羽五郎左衛門に下賜
痣丸昔悪七兵衛景清所持
北野藤四郎[脇差]北畠中将信雄殿には作北野藤四郎
鎬藤四郎三七信孝殿には作しのぎ藤四郎
大江元亀4年荒木信濃へ下賜
星切曽我五郎所持。天正3年信忠へ
荒波信忠へ下賜(荒波一文字
無銘藤四郎[脇差]
アラミ藤四郎[脇差](大坂新身藤四郎
上龍下龍正宗[脇差](上り竜下り竜正宗
大トオシ正宗[脇差](大通し正宗)短刀
左文字[脇差]ハカ道祐所持(道祐左文字
左文字尾州ヨリ出申候
吉光[脇差]越前朝倉(朝倉藤四郎
吉光アラミニ似タリ
コウ(江)[脇差]森川所持之(森川郷
抜国吉[脇差]安宅摂津所持
国行[脇差]佐々木殿所持(佐々木国行
国次前宗達(津田宗達)、三好下野へ参候
ウチイ正宗油屋ニ質ニ有之タル也(氏家正宗
実休光忠三好実休
朝倉光忠越前朝倉
光忠
信国三好宗三所持、従油屋被召上候(宗三信国
香西長光
篭手切正宗

「油屋」とは、堺の豪商油屋常言を指しており、茶人としても高名。名物茶器においても、大名物油屋肩付、大名物曜変天目大名物灰被天目、名物尼崎天目台などを所持した。

「ハカ道祐」とは茶人芳賀道祐のこと。

「三大会記」とは、「天王寺屋会記」、「松屋会記」、「宗湛(そうたん)日記」の三つの茶会記をいう。「今井宗久茶湯日記書抜」を加えて四大会記ともいう。

森川郷
森川所持之の森川郷は、試し切りの達人森川出羽守重俊の父、金右衛門尉氏俊所持とされる。
道祐左文字
織田信長蔵刀。芳賀道祐(どうゆう)旧蔵。


名物茶器  

  • 信長が茶器を褒美として與えることで武将の統制を行ったことも有名である。
  • 永禄11年(1568年)に上洛すると、松永弾正より東山御物でもあった「九十九茄子」を献上され、信長はこれに大和一国支配を許している。
  • この時、堺の今井宗久も「松島の茶壺」、「みをつくし茄子」(銘紹鴎、一名みをつくし)を献上し、信長に近づいている。
  • 翌永禄12年(1569年)には、信長は松井友閑と丹羽長秀に命じ大文字屋宗観から「初花肩衝茶入」、祐乗坊から「富士茄子」、法王寺の竹の茶杓、池上如慶の「蕪なしの花入」、「桃底花入」、玉磵筆「雁の絵(平沙落雁)」を買い上げている。
  • 永禄13年(1570年)にも友閑と長秀に命じて堺で名物狩りを行わせており、このときには薬師院の「小松島の茶壺」や津田宗及の「趙昌筆の菓子の絵」、松永弾正の玉潤筆の「遠寺晩鐘」の絵などを買い上げた。
  • その後も「天猫姥口釜」、「松花の茶壺」、「金花の茶壺」、天正元年には本願寺顕如から「白天目茶碗」など唐物名物を蒐集している。
  • こうして蒐集した茶器は、信長自ら茶会を開き、権力の誇示を行った他、功績のあった家臣に與えることで褒美とした。
  • 丹羽長秀「周光茶碗」「白雲」、柴田勝家「天猫姥口釜」「柴田井戸」、明智光秀「八重桜」、羽柴秀吉「月の絵(洞庭秋月)」、「乙御前釜」、「馬麟の雀の絵」、「砧花入」、「朝倉肩衝茶入」、「大覚寺天目」、「朱徳作竹茶杓」、織田信忠「初花肩衝」「松花茶壺」、大友宗麟「新田」、今井宗久「みをつくし茄子」(銘紹鴎、一名みをつくし)」、津田宗及「珠光文琳」など。
    滝川一益が「珠光小茄子(こなすひ)」の褒美を期待して奮戦したが上野国と関東管領職を与えられたとして嘆いた話は有名。
  • さらに信長は家臣が茶会を開くための許可(ゆるし茶湯)権を握っており、これが許されたのは、信忠、明智光秀、佐久間信栄、羽柴秀吉、野間長前、村井貞勝の6名であった。
  • 信長は本能寺の変の前日にも茶会を開いており、そこでは大友宗麟と博多の豪商嶋井宗室(宗叱)を正客とし、神屋宗湛のほか、40数名の公家も相客として呼ばれている。
  • ここで信長御物と呼ばれることになった名物茶器の内、実に38点が披露されたという。

    茄子茶入 九十九茄子  珠光小茄子
    肩衝茶入 円座肩衝  勢高肩衝
    大海茶入 万歳大海
    天目   (紹鴎)白天目  犬山灰被天目
    茶碗   松本茶碗  宗無茶碗
    珠光茶碗 珠光茶碗
    高麗茶碗 高麗茶碗 紹得
    天目台  数の台(二つ)  堆朱龍の台
    唐絵   趙昌 菓子
    唐絵   玉磵 古木  小玉磵
    唐絵   牧渓 くわい  同 ぬれ烏
    香炉   千鳥の香炉
    珠徳茶杓 二銘茶杓(象牙)  浅茅(竹)
    火箸   相良高麗火箸  鉄火箸
    炭斗   宗及所持
    蓋置   開山五徳  ほや香炉
    釣花入  貨狄
    青磁花入 蕪無  (平泉寺)玉泉所持筒
    水指   切桶  帰花
    水指   〆切
    杓立   柑子口
    建水   天下一合子
    香合   蘭  立布袋
    釜    宮王釜  田口釜
     
    一 三日月、松島、岸ノ絵、一萬里江山、きだうの墨跡、大道具に依て安土に残置候 重而拝見可被仰付候
     午
      六月一日  長庵 判
       宗叱 参ル
    (仙茶集「御茶湯道具目録」)

  • 翌日本能寺が焼け落ちるとその殆どが灰燼に帰したが、宿泊していた島井宗室と神屋宗湛は、茶会の開かれた書院に入り、空海筆の「千字文」と「玉潤の枯木絵」を持ち出している。また「九十九茄子」も焼け跡から発見され秀吉所蔵となっている。

逸話  

肖像画  

  • 有名な緑色の肩衣のものは狩野宗秀によるもので、愛知県豊田市の長興寺所蔵。信長旧臣で三河国衣城代の余語正勝が寄進したもの。
    この余語正勝とは佐久間正勝のことだとされる。佐久間信盛の長男で通称甚九郎。諱は正勝、信栄。号に松泉庵・宗岩・不干斎。衣城は金谷城、挙母城とも。
  • 黒の衣冠束帯姿のものでは、神戸市立博物館蔵のものと、総見寺蔵のものが有名。
  • 安土城郭資料館(近江八幡)に保管されている織田信長肖像画は、天童市三宝寺の所有である。寺では肖像画はイエズス会の宣教師であり画家のジョヴァンニ・ニッコロ(Giovanni Nicolao)が描いたものと伝え、それを明治時代に天童織田藩出身の宮中写真師大武丈夫が複写し宮内庁、織田宗家、三宝寺に保管したものである。現存するのは三宝寺所蔵のものだけとなっている。
    ジョヴァンニ・ニッコロ(Giovanni Nicolao)は1562年にイタリアナポリで生まれた。天正11年(1583年)にイエスズ会から日本に派遣され、天正18年(1590年)頃から神学校で西洋絵画を教えている。1620年までに国外追放され、1626年マカオで没した。

死のうは一定  

  • 信長といえば敦盛が高名だが、それと同じくらい好んで口にした小唄がある。

    死のうは一定
    忍び草には何をしよぞ
    一定語り起こすよの

  • これは、人間誰にも等しく死が訪れるものだ。自分が死んだ後も語り継がれるためには何をすればいいのだろうか。もし何か(しのび草を)残すことができれば、後世の人々はそれをよすがに語り継いでくれることだろう。というような意味だと解されている。「忍び草」は「偲び草」であり、亡くなった故人を思い慕うたねとなるもののこと。現在では香典返しに書く場合がある。




「敦盛」  

  • 信長といえば「人間五十年」の敦盛が有名だが、あれは幸若舞の「敦盛」に登場する熊谷直実のセリフである。

幸若舞「敦盛」  

  • 義経の逆落しで有名な「一ノ谷の戦い」のあとの話。源氏方に押され、敗走を始める平家に、若き笛の名手でもあった平敦盛がいた。敦盛は平相国清盛の甥、平経盛の子にあたり、退却の際に愛用の漢竹の横笛(青葉の笛・小枝)を持ち出し忘れ、これを取りに戻ったため退却船に乗り遅れてしまう。
    「小枝(さえだ)」は、笛の名手であった祖父平忠盛が鳥羽上皇から賜ったもの。現在は神戸市の須磨寺所蔵。「青葉」の項に詳しい。
  • 敦盛は出船しはじめた退却船を目指し渚に馬を飛ばし、また退却船も気付いて岸へ船を戻そうとするが、逆風で思うように船体を寄せられない。敦盛自身も、荒れた波しぶきに手こずり馬を上手く捌けずにいた。
  • そこに源氏方の熊谷直実が通りがかり、格式高い甲冑を身に着けた敦盛を目にすると、平家の有力武将であろうと踏んで一騎討ちを挑む。
  • 多勢に無勢一斉に矢を射られるくらいならと、敦盛は直実との一騎討ちに応じる。しかし悲しいかな実戦経験の差、百戦錬磨の直実に一騎討ちでかなうはずもなく、敦盛はほどなく捕らえられてしまう。
  • 直実がいざ頸を討とうと組み伏せたその顔をよく見ると、元服間もない紅顔の若武者。名を尋ねて初めて、数え年16歳の平敦盛であると知る。直実の同じく16歳の子熊谷直家は、この一ノ谷合戦で討死したばかり、我が嫡男の面影を重ね合わせ、また将来ある16歳の若武者を討つのを惜しんでためらってしまう。
  • これを見て、組み伏せた敵武将(敦盛)の頸を討とうとしない直実の姿を、同道の源氏諸将が訝しみはじめ、「次郎(直実)に二心あり。次郎もろとも討ち取らむ」との声が上がり始めたため、直実はやむを得ず敦盛の頸を討ち取った。
  • 一ノ谷合戦は源氏方の勝利に終わったが、若き敦盛を討ったことが直実の心を苦しめる。合戦後の論功行賞も芳しくなく同僚武将との所領争いも不調、翌年には屋島の戦いの触れが出され、また同じ苦しみを思う出来事が起こるのかと悩んだ直実は世の無常を感じるようになり、出家を決意して世をはかなむようになる。
  • 出家して世を儚む熊谷直実の詠嘆として、中段後半にくだんのセリフが登場する。

    思へばこの世は常の住み家にあらず
    草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし
    金谷に花を詠じ、榮花は先立つて無常の風に誘はるる
    南楼の月を弄ぶ輩も 月に先立つて有為の雲にかくれり
    人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり
    一度生を享け、滅せぬもののあるべきか
    これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ

  • この熊谷直実は源氏方ではあるが、その父熊谷直貞は、平盛方(桓武平氏、直方の孫)の子に生まれて熊谷家の養子となっている。源氏方として攻めてはいるが平氏の血を引くことがこの悲劇を際立たせている。


信長の「人間五十年」  

  • 信長公記などでもこの部分を謡う信長が登場し、安土桃山時代を扱った映画やドラマではこの部分を朗する信長が必ずと言ってよいほど登場する。
  • 歌の意味するところは少し難しい。
  • 「人間」は当時「じんかん」と読んでおり、人の世という意味で使っている。「下天(げてん)」とは正しくは四天王衆天(しだいおうしゅうてん)という。そこでは一昼夜は人間界の50年に当たり、住人の定命は500歳とされる。
    天台宗十界
    四聖仏界
    菩薩界
    縁覚界
    声聞界
    六道天上界
    (六欲天)
    他化自在天(第六天)
    化楽天(第五天 / 化天)
    兜率天
    夜摩天
    忉利天
    四大王衆天(下天)
    人界
    修羅界
    畜生界
    餓鬼界
    地獄界
  • つまり、「人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻(ゆめまぼろし)の如くなり」という言葉は、人の世の50年は下天ではただの一夜にしかあたらない。だから夢、まぼろしのようだと言っているのである。
    信長公記で「下天」と書かれる部分は元の幸若舞では「化天(けてん)」と書かれる。幸若舞での「化天」とは、仏教の六欲天の第五位の世である”化楽天(けらくてん)”をさしており、そこでは一昼夜は人間界の800年に当たる。いずれに比べても人の世は一瞬であり儚いという意味になる。

    信長が名乗ったとされる「第六天魔王」とは、六欲天の最上位「他化自在天(たけじざいてん)」のことをいう。第六天魔王波旬(はじゅん=悪魔)、天子魔(てんしま)、天魔(てんま)などと呼ばれ、仏道修行を妨げている魔とされる。ルイス・フロイスがイエスズ会宛に送った書状で書かれているもので、それによると、武田信玄が西上作戦に出るに当たって信長宛に出した手紙において「天台座主沙門信玄」と記してあったために、それに対して信長が返書に「第六天魔王」としたためたとする。

「敦盛」後日談  

  • なお源頼朝を支えたのは坂東八平氏を中心とする関東に勢力を張った武家集団であり、いわゆる「治承・寿永の乱(いわゆる源平合戦)」を「源氏対平氏」の戦いであるという見方は、現代の視点では間違いとされる。旗頭となった武家の棟梁が、源氏あるいは平氏であったに過ぎない。
  • さらに、熊谷直実の息子熊谷直家は史実では承久3年(1221年)に亡くなっており、この一ノ谷の戦いの時点では生きている。つまり「死んだ嫡男の顔に重ねあわせ」るというのは間違っている。
  • 法然の弟子となり出家した熊谷直実は、法力房蓮生を名乗り、数々の寺院を建立している。