立花宗茂

立花宗茂(たちばなむねしげ)  

戦国時代の武将
高橋紹運の実子で、立花道雪の養子となる
従四位下・左近将監、侍従、飛騨守
筑後柳河藩の初代藩主
左近侍従

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生涯  

  • 永禄10年(1567年)、大友氏の重臣吉弘鎮理(高橋紹運(じょううん))の長男として生まれる。
    宗茂の父吉弘鎮理は吉弘鑑理の子。のち高橋氏の名跡を継ぎ高橋鎮種を名乗る。剃髪後に高橋紹運と号す。紹運の姉妹に菊姫(ジュスタ)がおり、大友氏22代当主大友義統の正室となる。大友氏23代当主大友義乗は外孫にあたる。
  • 宗茂の幼名は千熊丸で、後に彌七郎。
  • 宗茂は(関係者を含め)名前が何度も変わっている。
    1. 吉弘千熊丸:幼名
    2. 高橋彌七郎:実父吉弘鎮理が高橋氏の名跡を継ぐ(高橋鎮種)
    3. 高橋統虎:元服
    4. 戸次統虎:戸次鑑連(道雪)の養子となる
    5. 立花統虎:御旗・御名字の祝い
    6. 立花鎮虎→宗虎→正成→親成→尚政→政高→俊正→経正→信正:朝鮮出兵の頃より何度か改名
    7. 立花宗茂:陸奥棚倉1万石を領した頃

ここでは宗茂で通す。養父道雪も生涯戸次を名乗ったというが高名な立花道雪で通す。実父吉弘鎮理も同様に高橋紹運で通す。

  • 永禄12年(1569年)、前年に高橋鑑種が討伐されて絶えた高橋氏の名跡を実父である吉弘鎮理(よしひろしげまさ)(高橋鎮種(しげたね)と名乗る。のち高橋紹運)が継いだ。以後高橋氏の跡取りとして育てられ、元服後は高橋統虎と名乗る。
    筑後高橋氏はもと大蔵党の一派で豊後大友氏の重臣となる。高橋長種に子がなく、名跡が絶えるのを避けるため高橋鑑種(一萬田氏出身)や高橋鎮種(吉弘氏出身)が家督を継いだ。

戸次氏  

  • 男児の無かった大友氏の重臣戸次鑑連(立花道雪)から統虎(宗茂)を養嗣子として迎えたいと何度も所望され、天正9年(1581年)に道雪の養子として出されている。
  • 宗茂は、実質的に立花家の家督を継いでいた道雪の娘・誾千代(ぎんちよ)と結婚して婿養子となり、名も戸次統虎(べっき むねとら)と改め、誾千代に代わって道雪から家督を譲られた。
    この時、実父高橋紹運は宗茂に「養子に行ったならばもはや高橋の人間ではない。立花勢の先鋒となってわしを討ち取れ。今後はこの紹運を父と思わず道雪公を父と思うように努めよ」と諭し、長光の剣を与えた。宗茂は、この剣を紹運の形見として終生身辺から離さなかったという。

    高橋氏は次男の統増が継ぐが、後に兄の宗茂に従い立花性になる。立花直次。宗茂には実子がなかったため、この直次の四男立花忠茂を養子とし柳川藩主の家督を継がしめた。
  • 天正10年(1582年)、岩戸の戦いに出陣、11月、立花山城で「御旗・御名字」の祝いを行い、名字を戸次から立花に改めた。
  • 天正13年(1585年)、養父立花道雪(戸次道雪)が病死。
  • 天正14年(1586年)、侵攻してきた島津軍との戦いで、実父高橋紹運が戦死(岩屋城の戦い)。

秀吉  

  • 主君である大友氏が畿内を平定し九州へ伸長してきた秀吉に援軍を依頼し、以下その配下で秀吉の九州平定にて活躍する。
  • 戦後、秀吉はその功を認めて筑後国柳川13万2000石を与え、大友氏から独立した直臣大名に取り立てた。

    その忠義、鎮西一。その剛勇、また鎮西一。

  • 天正15年(1587年)佐々成政移封後の肥後国において大規模な国人一揆が発生し、出兵。この陣中において小早川隆景を義父とし、小早川秀包と義兄弟の契りを結んでいる。
  • 天正16年(1588年)に上洛し、7月に従五位下侍従に叙任される。同時に羽柴の名字を名乗ることを許され、豊臣姓を下賜される。
  • 天正18年(1590年)、小田原征伐に従軍する。このとき、秀吉は諸大名の前で宗茂を、「東の本多忠勝、西の立花宗茂、東西無双」と評し、その武将としての器量を高く褒め称えたという。

朝鮮出兵(文禄の役・慶長の役)  

  • 文禄元年(1592年)からの文禄の役では小早川隆景を主将とする6番隊に2,500人の軍役を課せられて参陣。碧蹄館の戦いでは弟と共に先陣となり、宗茂自身は長槍や長刀を提げ、一騎駆し敵兵将15人を斬殺。統増も雷のような大声をあげ奮迅突撃し、全軍は敵500騎を討ち取った。小早川隆景は「立花家の3,000は他家の1万に匹敵する」と評価し、秀吉からも「日本無双の勇将たるべし」との感状を拝領した。
    • 風斗就澄に与えた「水田長光」の逸話はこの頃のものと思われる。
  • 慶長2年(1597年)からの慶長の役では侵攻軍には編入されずに安骨浦の守備を命ぜられている。

関ヶ原  

  • 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは、その直前に徳川家康から法外な恩賞を約束に東軍に付くように誘われたが、宗茂は「秀吉公の恩義を忘れて東軍側に付くのなら、命を絶った方が良い」と言い拒絶する。
  • 石田三成率いる西軍に属し伊勢方面に進出、その後、毛利元康・毛利秀包(小早川秀包)・宗義智・筑紫広門と共に東軍の京極高次が守る大津城を攻めた(大津城の戦い)。
  • 9月15日の関ヶ原本戦には大津城を攻めていたために参加できず、本戦での西軍壊滅を知って大坂城に引き返している。その後西軍総大将の毛利輝元が家康に恭順したため、宗茂は自領の柳川に引き揚げた。この時、実父高橋紹運の仇である島津義弘と同行することになる。関ヶ原で兵のほとんどを失っていた島津義弘に対し、「今こそ父君の仇を討つ好機なり」といきり立つ家臣たちの進言を「敗軍を討つは武家の誉れにあらず」と言って退け、むしろ島津軍の護衛を申し出でて義弘と友誼を結び、無事に柳川まで帰りついたという。
  • しかし国許でも戦が起こっており、黒田孝高(如水)、加藤清正、鍋島直茂が柳川を攻める形勢となった。柳川城へ篭城する構えを見せたため、黒田如水や加藤清正が宗茂を懸命に説得し、宗茂は降伏開城した。

江戸時代  

  • 開城後は改易されて浪人となる。加藤清正や前田利長から家臣となるように誘われるが、宗茂はこれを謝絶した。そこで清正は家臣にすることを諦め、食客として遇したという。
  • 慶長8年(1603年)江戸に下った宗茂は本多忠勝の世話で蟄居生活を送り、慶長9年(1604年)忠勝の推挙で江戸城に召し出される。家康から幕府の御書院番頭(将軍の親衛隊長)として5,000石を給されることになり、まもなく徳川秀忠の御伽衆に列せられて陸奥棚倉に1万石を与えられて大名として復帰した。同地で加増され2万5,500石の知行となり、慶長15年(1610年)には更に9,500石の加増を受けて最終的に3万5,000石の領地高となり、この頃から宗茂と名乗っている。
  • 大坂の役では秀忠の麾下に列してその軍師参謀を兼ね警固を担当し、戦いの末尾は毛利勝永の軍勢を駆逐している。

柳川への復帰  

  • 元和6年(1620年)、幕府から旧領の筑後柳川10万9,200石を与えられる。これにより宗茂は、関ヶ原に西軍として参戦し一度改易されてから旧領に復帰を果たした、唯一の大名となった。
  • 寛永14年(1637年)には島原の乱にも参陣し、総大将の松平信綱を輔佐している。
  • 寛永15年(1638年)家督を養子立花忠茂に譲って致仕・剃髪し、寛永19年(1642年)、江戸柳原の藩邸で死去した。享年76。


人柄  

  • 優れた人格と器量を併せ持ち様々な逸話が残る。宗茂の人格形成には、義父立花道雪、実父高橋紹運の影響が強いと考えられている。

人となり温純寛厚。徳ありて驕らず。功ありて誇らず。人を用ふる、己に由る。善に従ふ。流るるが如し。奸臣を遠ざけ、奢侈を禁じ、民に撫するに恩を以てし、士を励ますに、義を以てす。故に士、皆之が用たるを楽しめり。其兵を用ふるや、奇正天性に出づ、故に攻めれば必ず取り、戦へば必ず勝てり(名将言行録)

  • 関ヶ原の戦い後の浪人時代は、京都で家臣ともども乞食同然に身を落とし、その日の食べ物にも難儀したという。
    • ある時米が足りないので家臣が雑炊を作って差し出した所、宗茂は「汁かけ飯を食べたい時は、自分で飯に汁をかけるから、余計な事をするな」と怒ったという。これは米に困って雑炊を作るという意味がわからなかったのだという。
    • 家臣が乞食に出かける時には、宗茂が留守番をしていた。ある日家臣が残飯を干飯にするために日に干して出かけた所、その日突然雨が降ってきた。家臣たちは宗茂が雨に濡れないように残飯を屋内に取り込んでくれたかどうかと語り合い、「そんな些細な事に気をかけるような殿では、再仕官などおぼつかないだろう」という結論になった。帰宅すると、案の定宗茂は残飯を放置して雨に濡れるままにしていた。
  • 剣術は丸目長恵から文禄5年(1596年)10月にタイ捨流の免許皆伝を受けている、自身も抜刀術隋変流を開祖し、後年の中村天風もその剣術を修得した。
  • 茶道は細川忠興からも一目置かれていたようで、忠興は子の細川忠利に対して、数寄の事は宗茂を見習う事と書き記している。

系譜  

  • 道雪の娘、誾千代は父道雪譲りの勇猛さで知られた。

    戸次伯耆守(道雪)は大友宗麟の重臣なれど、矢傷にて脚がくさり衰えたり。されど娘(誾千代)ありて勇壮。城内の腰元女中、五十名ほど訓練し、戦初めには一斉射撃をなして敵の心胆を奪う

  • 宗茂と誾千代は険悪な仲だった上に子に恵まれず、道雪の死後程なくして、二人は別居したという。立花家改易後、誾千代は肥後国玉名郡腹赤村の市蔵宅に移り住んでいたが、慶長7年(1602年)7月頃から病を患い、10月17日に死去した。享年34。道雪の直系子孫は絶えている。
  • 宗茂は、柳川に復帰した翌年元和7年(1621年)、城下に良清寺を建立し、誾千代の菩提を弔っている。開基の応誉は蒲池氏であり(柳川城主蒲池鑑盛の孫)、この応誉の子孫に松田聖子(本名・蒲池法子)がいる。
  • 宗茂は生涯を通じて実子に恵まれなかった為、同様に直系の子孫はいない。
  • 実弟である立花直次の四男、立花忠茂を養子に迎え家督を継がせた(筑後柳河藩2代藩主)。

刀剣  

長光の剣  


銘 長光
長25.3cm
重要文化財
立花家史料館所蔵

  • 順慶長光長光初代)の作
  • なかご生ぶ、目釘孔1個。
  • 天正9年(1581年)の秋、筑前岩屋城主であった高橋紹運が長男宗茂(弥十郎統虎)を戸次道雪のもとに養子に出す際、出立にあたって宗茂に与えたものとされる。
  • その際、実父高橋紹運は宗茂に「もし高橋と立花の間に戦が起こった場合はなんとする」と問うた。宗茂が「父上(高橋)にお味方いたします」と答えた所、紹運は「養子に行ったならばもはや高橋の人間ではない。立花勢の先鋒となってわしを討ち取れ。今後はこの紹運を父と思わず道雪公を父と思うように努めよ。」と諭し、長光作の剣を与えた。もし自分が道雪と敵味方の間柄となったときは先鋒として攻め参り、この剣でもって討ち取るように宗茂に言ったという。

    かく別れを告げた上からは今日只今限り夢にも紹運を父と思ふな、私も汝を子と思はぬ、反覆常なき戦国の習、明日にも立花と敵味方と別れたなれば、武士道の意地、汝道雪の先鋒となり攻め来たれ、華々しう一戦を交えようぞ。其折りは此剣にて紹運の首を斬れと莞爾として、前半に差していた長光の剣をとって興えた。

  • また「道雪殿は常日頃から未練な振る舞いを嫌っておられるので、おぬしに不覚の行跡あろうものなら義絶されよう。その時は高橋に帰ろうと思うのではなく、この刀で直ちにその場で自害せよ。」と諭したともいう。
  • 宗茂は、この剣を紹運の形見として終生身辺から離さなかった。


雷切  

  • 立花道雪(戸次道雪)所用。
  • その後立花宗茂に伝わり、以後柳川藩立花家に伝わった。


波泳ぎ兼光  


梅岳宮御神剣 兼光  


無銘 兼光
戸次道雪〜立花宗茂所用

  • 立花家の由来書によると、この刀は戸次道雪がいつも腰に差していたもので、これを譲り受けた立花宗茂も合戦にはいつも使用していたという。
  • 無銘だが、宗茂の時代には備前国(岡山)の長船兼光の作と極められていた。
  • 明治時代の刀剣帳では、御神剱御宝剱に分類されており、文政7年(1824年)には、祭礼のときには梅岳宮の神殿におさめることになったと記されている。


短刀銘 吉光国宝 

短刀
銘 吉光
長23.3cm
国宝
立花家資料館所蔵

  • 長七寸六分九厘。平造り、庵棟、身幅広く内反り。表裏に刀樋。なかご生ぶ、先は栗尻。目釘孔2個。目釘孔の下、中央に「吉光」の二字銘がはいる。
  • 筑前の国粕屋郡立花山に居城した大友近江守貞宗の息子である立花左近将監貞載が足利尊氏に従って上洛し、建武3年(1336年)正月、京都東恫院揚梅ヶ辻で、敵の大将結城大田判官親光と引き組んで重傷を受けながらこれを討ち取った賞として尊氏から賜ったものとされる。
  • この吉光の短刀は、源氏の白旗、血染めの鉄扇とともに立花家三種の神器とされており、立花氏代々の什宝として伝えられた。
  • 昭和10年(1935年)4月30日旧国宝指定。
  • 昭和28年(1953年)11月14日に国宝指定。

水田長光  

  • 朝鮮出兵の頃、風斗就澄に与えたという。

その他  

脇差
銘「貞宗」立花宗茂所用。
短刀
銘「安吉」立花宗茂・二代藩主立花忠茂・三代藩主立花鑑虎所用。
銘「播州住政国作」立花宗茂所用。参勤交代の際に持参されたという。
銘「濃州関住兼貞作」立花宗茂所用。参勤交代の際に持参されたという。