石野正宗

石野正宗(いしのまさむね)  


金象嵌 正宗磨上 光徳(花押) 有馬中務少輔所持
石野正宗

  • 享保名物帳所載(ヤケ)

    石野正宗 象嵌銘長二尺三寸三分 代金二百枚 御物
    石野八兵衛殿所持、有馬中務殿より上る、忠表に有馬中務少輔と象嵌

由来  

  • 石野八兵衛所持にちなむという。

来歴  

  • 石野八兵衛氏置(赤松氏置)から筑後久留米藩の初代藩主有馬豊氏に伝わる。
    • 氏置の父赤松氏満(赤松氏庶流七条氏後裔)が石野城を与えられたために石野氏を称し、有馬豊氏の父である有馬則頼の娘を娶っており、氏置は幼少時に外祖父である有馬則頼に養育されている。
  • 慶長17年(1612年)に氏置が死んだ後に、遺物として有馬家に伝わったものとされる。
  • 有馬豊氏は埋忠明寿に命じて二尺三寸二分に磨上させ、金具も作らせた上で二百枚の折紙を付けさせている。
  • さらに元和元年(1615年)8月には、子の忠頼が「正宗磨上 光徳(花押) 有馬中務少輔所持」と金象嵌を入れさせている。
  • 承応4年(1655年)3月20日に忠頼が死ぬと、のち嫡子の有馬頼利より将軍家に遺物として献上された。※承応4年(1655年)4月13日改元。

    明暦元年七月、有馬松千代頼利より。 亡父中務少輔忠頼遺物とて正宗の刀。 吉光の脇差を獻じ奉る。
    (徳川実紀)




石野八兵衛  

  • 詳註刀剣名物帳」では石野八兵衛を「いづくの人とも分らず」不明としているが、石野八兵衛氏置とされる。
  • 石野氏置は、文禄元年7月に肥前名護屋で家康にまみえ、近習として仕える。文禄4年(1595年)には上総国天羽に2千余石を拝領している。関ヶ原で斥候として務め、伊豆修禅寺に千石加増。慶長6年(1601年)には御使番となり五の字の指物を拝領している。慶長17年(1612年)10月9日に39歳の若さで死去。妻は内藤家長の娘で、4歳の八兵衛氏照が跡を継いでいる。
  • 子の八兵衛氏照は、寛永3年(1626年)に領地朱印を拝領し、2千5百石を知行する。寛永4年(1627年)に御書院番、寛永10年(1633年)に御小姓組。寛永16年(1639年)に御徒士頭、宇治採茶使を務める。寛永18年(1641年)布衣を許され、承応2年(1653年)閏6月に下田奉行となる。

宇治採茶使(御茶壷道中)  

  • 宇治採茶使(うじさいちゃし)は、京都宇治の名産品である宇治茶を徳川将軍家に献上するための茶壺を運ぶ行列のこと。御茶壷道中ともいう。
  • 慶長18年(1613年)に幕府が宇治茶の献上を命じる宇治採茶師を派遣したのが始まりで、元和年間には使番が使者に任命され宇治茶を運んでいた。徳川家光の時代の寛永9年(1632年)には制度化され、寛永10年から幕末の慶応2年(1866年)まで続けられた。
  • 茶道頭や茶道衆(茶坊主)のほか茶壷の警備の役人などを含み、行列は最大時1000人にまで膨れ上がったという。
  • この御茶壷道中は、将軍が飲み徳川家祖廟に献ずるものであるために大変な権威があり、道中では摂関家や門跡並みの扱いで、御三家の列であっても駕籠から降り、馬上の家臣はおりて、道を譲らねばならなかった。
  • 童謡「ずいずいずっころばし」にも歌われているという。※諸説あり

    ずいずいずっころばし ごまみそずい
    茶壺に追われて とっぴんしゃん
    抜けたら、どんどこしょ
    俵のねずみが 米食ってちゅう、ちゅうちゅうちゅう
    おっとさんがよんでも、おっかさんがよんでも、行きっこなしよ
    井戸のまわりで、お茶碗欠いたのだぁれ

石野八兵衛氏照  

  • 徳川実紀には、この宇治採茶使に石野八兵衛氏照なるものが随行する様が書かれている。
  • 八兵衛氏照は、寛永4年に書院番、寛永10年には小姓組、寛永16年(1639年)には歩行頭(徒歩頭)に任じられる。

    (寛永16年7月)松平淡路守忠直。書院番北條右近大夫氏利その組頭になり。 書院番新庄内匠直之。 小姓組川口久助宗次小姓組與頭になり。 小姓組室賀源七郎正俊小十人頭となり。書院頭宮城三左衞門和治。 小姓組依田内藏助信重。 曾我太郎右衞門包助。 石野八兵衞氏照。 松平新平勝直歩行頭となり。 大番組頭筧薪太郎正成二條城番になり。 與力二十五騎預けらる。

  • 寛永18年には宇治採茶使として任務を行っている。

    (寛永18年3月)歩行頭石野八兵衛氏照宇治採茶奉りて暇賜ふ。

    (7月7日)歩行頭石野八兵衛氏照宇治より帰謁す。

    (10月5日)歩行頭石野八兵衞氏照甲州へ茶壺とりにまいるとて暇給ふ。

    (10月8日)歩行頭石野八兵衞氏照甲府よりかへり參る。

  • その後、承応2年(1653年)には下田奉行となり、寛文8年(1668年)まで務めている。
  • 当時下田の船改番所から大浦の磯までは山越えの道しかなかったため不便だったが、寛文4年には「大浦切り通し」を開削する大工事を行っている。この開削費用として、入津廻船から帆一反につき銀一匁、諸大名の手船から水手を普請人足に徴発して工事を完成させたという。
  • 以後下田は発展を遂げる。
  • 石野八兵衛氏照は、寛文8年6月に職を辞し引退、寛文10年に没している。

その後  

  • 石野氏置の弟正直は紀州藩に仕え、その子石野則員は氏置の子、氏照の養子となった後分家を立てて旗本となる。
  • 享保年間の勘定奉行石野範種は則員の嫡男である。享保8年(1723年)御目付、享保14年(1729年)12月25日小普請奉行。27日従五位下筑前守。享保19年(1734年)12月11日勘定奉行。元文2年(1737年)6月1日大目付。
  • また則員の五男則維は、血筋が近いこともあって予てから縁のあった有馬則故(旗本3千石)の養子になり、その後嗣子がなかった久留米藩有馬家を相続した(久留米藩第6代藩主有馬則維)。摂津有馬氏は播磨赤松氏の庶流で、有馬赤松家ともいう。
  • 氏満の玄孫で遠国奉行(日光奉行:正徳元年5月~正徳3年8月)を務めた範恭が宝永5年(1708年)8月11日に名実共に赤松姓に復し、5千石余の旗本として幕末まで存続した。
  • 幕末の外国奉行、書院番頭・赤松範忠は氏満から数えて10代目に当たり、軍艦奉行・赤松範静は範忠の子である。