物干し竿

物干し竿(ものほしざお)  

太刀
伝備前長船長光
三尺余り

  • 巌流開祖、佐々木小次郎が好んで佩いたと言われる刀。
  • 本朝武芸小伝によれば三尺余りの太刀といい、一説に備前長船長光の子、二代目将監長光の作とされる。

    巌流は三尺餘の白刄を手にして来る

    巌流(佐々木小次郎のこと)は物干さほと名付し三尺餘の大刀を以て勝負をしたりと、爾今船嶋に巌流の墓あり

概要  

  • 宮本武蔵の養子宮本伊織は、武蔵の菩提を弔うため承応3年(1654年)豊前国小倉藩手向山山頂に顕彰碑文を建立した。
  • これには決闘の次第が描かれており、そこで「物干し竿」が登場する。

    爰に兵術の達人、岩流と名のる有り。彼と雌雄を決せんことを求む。岩流云く、真剣を以て雌雄を決せんことを請ふ。武蔵対へて云く、汝は白刃を揮ひて其の妙を尽くせ。吾は木戟を提げて此の秘を顕はさんと。堅く漆約を結ぶ。長門と豊前との際、海中に嶋有り。舟嶋と謂ふ。両雄、同時に相会す。岩流、三尺の白刃を手にして来たり、命を顧みずして術を尽くす。武蔵、木刃の一撃を以て之を殺す。電光も猶遅し。故に俗、舟嶋を改めて岩流嶋と謂ふ。

  • ただし決闘の60年後に、豊前国の細川家小倉藩家老門司城代の沼田延元の家人が1672年に記した文書「沼田家記」によると、武蔵は決闘で小次郎を殺すに及ばず、敗北した小次郎はしばらく後に息を吹き返し、その後武蔵の弟子らに殺されたとある。
  • これは宮本伊織の碑文と矛盾している。また、小次郎の弟子らも決闘で負けたことを恨み武蔵を襲撃するが、沼田の助けにより武蔵は無事落ち延びたとある。

佐々木小次郎  

  • 佐々木小次郎は、安土桃山時代から江戸時代初期の剣客。
  • 号は岩流(巖流、岸流、岸柳、岩龍とも)。
  • 宮本武蔵との巌流島での決闘で知られる。
  • 生年は不詳。
  • 佐々木小次郎は、中条流富田勢源、あるいは富田勢源門下の鐘捲流の鐘捲自斎の弟子とされている。
  • 初め、安芸国の毛利氏に仕える。
  • のち武者修業のため諸国を遍歴し、「燕返し」の剣法を案出、「岩流」と呼ばれる流派を創始。小倉藩の剣術師範となる。
  • 慶長17年(1612年)、この小次郎は剣豪宮本武蔵に挑戦している。九州小倉の「舟島」において決闘し、武蔵に敗れて死んだ。決闘時、武蔵は60歳近く、小次郎は20代であったとされる。
    舟島は、こののち「巖流島」と呼ばれるようになり、勝負は「巖流島の決闘」と呼ばれるようになった。