津田遠江長光

津田遠江長光(つだとおとうみながみつ)  

太刀
長光名物 津田遠江長光)
72.4cm
国宝
徳川美術館所蔵

  • 本阿弥家による折紙がついている

    備前国長光
    正真 長さ二尺三寸八分少磨上之 代金子二百枚
    宝永五年 霜月三日

  • 鋩子小模様に乱れ込み、尖り心に返る。中心は二寸五分ほどすりあげ。目釘孔3個、「長光」二字銘。
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由来  

  • 明智光秀の家老津田遠江守重久所持にちなむ。

来歴  

信長  

  • もと織田信長の佩刀。
  • 信長は、反りが特に高かったために「海老背(えびのせ)」と名付け秘蔵していたとするが、反りは七分であり、誤りとされる。

津田遠江守重久  

  • 本能寺の変の際に明智光秀が安土城より奪い、家老津田遠江守重久に渡った。
  • 以降は享保名物帳に詳細な記事がある。

    信長公之御物也。天正十年六月二日、於京都本能寺御生害、明智日向守安土ニ至、御物共横領シテ、家老三人之内右刀家老津田遠江守ヘ遣ス。遠江事、秀吉公命ヲ赦免被成候而、秀次公ヘ被付、御生害後浪人トナリ、利長卿ヘ来ル。一万石被下。嫡男ヲ勘兵衛ト云、伊織半平太之親也。二男ヲ源右衛門ト云、右刀遠江ヨリ利長卿ヘ上ル。松姫様御入輿之刻、乱光包三百枚之脇差ト一所ニ宰相殿ヨリ綱吉公ヘ上ル。其己後 尾張殿ヘ拝領

  • 山崎の合戦後に津田遠江守重久は赦され、秀次、次いで横山長知の誘いをもって前田利長に5500石で仕える。

前田利長  

  • 長光太刀は、遠江守重久、または遠江守重久次男の源右衛門から前田利長へ献上された。寛永4年に本阿弥家に鑑定に出されており、それ以前に献上される。

綱吉  

  • 宝永5年(1708年)、加賀藩主前田吉徳(5代前田綱紀の子)の正室に、将軍綱吉の養女松姫(光現院、尾張中納言綱成の娘)として迎えた時に、前田綱紀よりこの「津田遠江長光」と「乱光包」を5代将軍綱吉に献上したという。
    • この直前に本阿弥家に出され金子二百枚の折紙をつけさせている。

尾張徳川家  

  • さらに、宝来6年(1709年)5月23日に六代将軍家宣より就封の暇の時、尾張藩主四代徳川吉通が拝領した。
  • その後尾張徳川家に伝わる。
  • 昭和16年(1941年)9月24日重要美術品指定、尾張黎明会所蔵。
  • 昭和28年(1953年)11月14日重要文化財指定。
  • 昭和29年(1954年)3月20日国宝指定。
  • 現在は徳川美術館所蔵


  • 本阿弥光柴押形」「本阿弥光温押形」にも池田(津田)遠江守所持の「遠江長光」として尼子氏が出雲の大場神社(大庭神社)に奉納とするがこちらは生ぶ中心で目釘孔の格好も異なる。刃長は二尺三寸七分でほぼ同じ。


津田遠江守重久  

安土桃山時代の武将
号 道供

  • 津田遠江守は山城の武将であり、細川管領家の家臣、津田佐渡守元重の子、大夫高重の子にて初め興三郎と称したという。
  • 足利義昭に仕え、7千石を領する。遠江守重久と名乗る。
  • 天正5年に明智光秀の家老となった。本能寺の変で先鋒を務め、山崎合戦でも2000人を率いて左先鋒を務める。
  • 山崎の戦い後、光秀の仇を討つべく秀吉を狙うが赦され、後に秀次に仕える。文禄3年(1594年)8月豊臣性を賜り、秀次の奏請により従五位下・遠江守に叙任される。
  • 秀次が自害し浪人していたところ、慶長元年(1596年)に前田利長が横山長知を遣わし5500石で登用した。
  • 津田遠江守重久は剛勇で知られ、一番槍を三度、感状を三通、兜首を取ること22回、敵将を6人斬ったという。
  • 前田利長に仕え、大聖寺城代。のち富山藩の高知組となる。大聖寺城が廃城となったのち、養雲山放生寺を菩提寺として開基、境内には一族の末裔である歌人長沢美津の歌碑が残る。
  • 寛永11年(1634年)86歳で没。

津田勘兵衞重次  

  • 慶長15年(1610年)に父重久の隠居を受け、跡は二男の津田勘兵衞重次が継いだ。
  • 大坂冬の陣では真田丸攻めで戦功を挙げ、夏の陣でも大野治房、御宿政友の軍を破っている。
  • これにより1万石へと加増され家老になるが、寛永18年(1641年)にキリスト教徒であるという高札が立ち、江戸へと送られ慶安4年(1651年)に客死したという。

    勘兵衞も素より禪宗の檀那にして、基督教と關係する所なかりき。然るに寛永十八年十月金澤城の大手に、勘兵衞が高山南坊の徒にして、後に改宗せりといへども、内心實に之を放棄せしにあらずと書したる高札を立てしものあり。是に於いて藩吏勘兵衞を江戸に護送し、利常より幕府に上申せしが、固より確乎たる事實あるにあらざるを以て空しく歳月を過し、慶安四年遂にその地に客死したりき。藩吏が勘兵術の冤罪たるを知りながら、尚且つ明瞭に之を斷ずること能はざりしは、實に幕府の法を憚ること常軌の外に出で、これに因りて禍の藩主に及ばんことを恐れたるを以てなり。

遠江  

  • 遠江(とおとうみ)とは、静岡県の大井川以西を指し、古えには「遠淡海(とほつあはうみ)」と表記した。
  • 当時の都(京都)からみて、近くにある淡水湖(淡海)が琵琶湖でありこちらは近淡海(ちかつあはうみ)で「近江国」と呼ばれ、それに対して遠くにあった淡海の浜名湖が遠淡海、そこから転じて「遠江国」となった。