油売

油売(あぶらうり)  

由来  

  • 天正のころ、家康が鷹狩りに出た際、油売り商人が前を横切る無礼を働いた。
  • 怒った家康は佩刀を近臣西尾小左衛門吉次に渡し、油売りを無礼討ちにしろと命じた。吉次が油売りを追いかけて斬り捨てると、いかほどが歩いた後に倒れたという。
  • そのためその刀を「油売り」と名づけて愛用していたが、その後西尾小左衛門吉次に与えたという。

    天正の頃御鷹野の折から。 油を賣もの御路を遮り不禮のさましたれば。彼打とめよとて。御佩刀を近臣西尾小左衞門吉次に授け給ひしかば。 吉次直に追かけて切しに。 しばしがほどはあゆみ行て。 兩斷に成て倒れしかば。 その御刀を油賣と名付て秘愛せられしが。 後に吉次にたまはりぬ。
    (徳川実記)


西尾吉次  

  • 美濃の西尾氏の生まれで、初名は義次とされている。
  • (西尾家譜が吉次の実父と伝える)吉良持広は松平清康の妹を妻に迎えて勢力維持をはかったが、天文4年(1535年)清康が世にいう森山崩れで横死する。
  • 吉次は織田信長への人質として送られ、桶狭間の戦いを経て信長に仕えることとなる。
  • 天正10年(1582年)徳川家康の饗応役を命じられ、本能寺の変が起こるとこれを急報し、護衛をして伊賀越えを決行、家康を無事に送り届け、そのまま家康の家臣になった。
    • ※この織田家人質から伊賀越えまでの伝は、謎が多くまた矛盾点も指摘されている。原市藩西尾氏の実態はよくわかっていない。いずれにしろ天正頃に家康の近臣となっていたことは事実のようだ。
  • 天正14年(1586年)、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)より「吉」の字の偏諱を受けて吉次と改名した。
  • 天正18年(1590年)、家康の関東移封にともない武蔵国足立郡原市に5000石の所領を与えられ、慶長4年(1599年)に従五位下隠岐守に叙任された。
  • 関ヶ原の戦いでも旗本備として功をたて、1602年に美濃国内で7000石加増され原市藩を立藩する。