江馬小烏丸

江馬小烏丸  

  • 江馬氏に伝わった小烏丸。
  • 江馬氏は、江氏ともいう。
  • 江馬小烏丸は、飛騨高山(高原諏訪)江馬氏所蔵品と、遠州浜松江馬氏所蔵品の2本ある。
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飛騨国分寺「小烏丸 

太刀
小烏丸(こがらすまる)の太刀
伝 高原諏訪城城主江馬氏家宝
二尺五寸
重要文化財
飛騨国分寺所蔵

  • 伝来は「飛騨国治乱記」および、柴田忠太郎編による「飛騨と江馬氏 : 高原史蹟」の「小烏丸の記」に詳しい。

    平家の一門西海に落行き、木曽義仲も滅び、京都も北条時政、守護の時分の事なりしが平相国清盛の舎弟修理大夫経盛卿の妻、経盛卿の子のいまだ幼きを懐に抱き京の近辺をさまよひしが元来美人なり、宿縁にや北条この上臈を見初めてとやかく相語らひ、彼幼子と共に鎌倉につれ下り、年月を送る、この子成長して元服し江馬小四郎輝経と名乗る、然るに時政天下の執権なれば其れに随ひ小四郎も威勢を振ふ、然るに頼朝、頼家卒去したまひ実朝の代に成り時政も卒す、時政の実子陸奥守義政執権を勤む、兼々小四郎と不和なりしが、小四郎は時政の卒去を幸ひ謀反の気色見えしかば、義時廉直なるにより父時政の不憫がりし事を思ひ、実朝の上意と号し、小四郎を飛騨国へ流す、則ち高原殿村に留り居住す、小四郎持来りし平家の重宝小烏丸太刀青葉の笛、一文字の薙刀等なり、小四郎子孫十七代まで続くといえども十五代迄は武道にうときが故に世人名を知らず、十七代左馬頭時盛武勇逞しき故か、高原郷を手下のものとなし、所領三千石を不足として越中へ切入り新川郡七万石を切従へ中地山に城郭を構へ輝盛時代になりても増々以て繁盛なり云々
    (飛騨国治乱記)

    然後平氏累代以之為家寶、大師平公清盛之孫、三品羽林維盛者、左将軍員外郎重盛之子矣、曾出讃陽屋嶋、入紀之南山時、贈書其弟資盛曰、劍以小鴉與於六代、六代者維盛之子矣、故資盛與六代、平族漸殘後、源殊進命平時政、探誅平氏子孫、終得六代欲誅之、高雄之文覺上人、乞源二品而助六台之命、故蓬髪為僧、號三位禪師矣、後源特進薨、文覺之謀逆見流於隠陽矣、關左武臣相議曰、三位禪師者平師之後、而謀逆之弟子矣、有後必禍平、不如謀之、乃命駿州乃人、岡部權頭忠實拘之矣、三位禪師知某謀、謂齋藤六入道阿請曰、所謂小烏者平氏累代家寶矣、不忍源家之為寶、汝持去必附與平族餘類、於是阿請持劍去、遍回扶桑、于時飛陽東北、高原之渠魁江馬小四郎平輝經者修理太夫経盛卿之遺蘗矣、阿請終會輝經、話三位禪師素旨、與劍去、輝經涕泣而請之、世々以為家寶、輝經十七世之孫、常陸介平輝盛有故、為三木頼綱入道之被滅、此時輝盛之妻、僧使春丁春丁者輝盛菩提所高原郷圓城寺之僧侶也以小鴉越中之住人與栂尾兵衛祐邦祐邦者輝盛室家之兄也天正十年之春輝盛氏族川上小七郎忠尋到越中、密殺祐邦、奪小鴉歸矣、天正十五年小七郎忠尋以小鴉、飛陽大守捧金森出雲守源可重矣、後慶長七年可重欲献東照大権現、而問本多佐渡守正信、正信曰、是為平氏重器、非源家所用、客又源氏莫用之、可重於是令圀分寺住侶大僧都玄海、及弟子尊雄大阿闍梨納薬師如来之寶殿、至今一百十有餘年矣
    (小烏丸の記)

来歴  

  • 以下では、より詳しい「小烏丸の記」に記される伝来を基本とし、異説として「飛騨国治乱記」の伝来を記す。

平家  

  • 「小烏丸の記」によれば、平家重代の「小烏丸(小鴉)」は平清盛を経て平維盛へと伝わり、屋島の戦いの際に六代こと平高清へと贈ったという。

    然後平氏累代以之為家寶、大師平公清盛之孫、三品羽林維盛者、左将軍員外郎重盛之子矣、曾出讃陽屋嶋、入紀之南山時、贈書其弟資盛曰、劍以小鴉與於六代

            ┌崇徳天皇
            ├近衛天皇
            │ 藤原成子 ┌式子内親王
            │  ├───┴以仁王
       鳥羽天皇─┴後白河天皇──二条天皇
               ├────高倉天皇
         平時信─┬平滋子    ├───安徳天皇
    【桓武平氏高棟流】├平時忠  ┌平徳子
             └平時子  ├平宗盛─┬平清宗
               │   ├平知盛 └平能宗
    【伊勢平氏】     ├───┴平重衡
    平正盛─┬平忠盛─┬平清盛
        │  │ │ ├───┬平重盛─┬平維盛──六代平高清
        │  │ │高階基章娘└平基盛 ├平資盛
        │  │ │          ├平清経
        │  │ ├平家盛       └平有盛
        │  │ ├平経盛──平敦盛
        │  │ ├平教盛─┬平通盛
        │  │ │    └平教経
        │  │ ├平頼盛─┬平保盛
        │  │ └平忠度 └平為盛
        │  │  
        │  ├──┬平家盛
        │ 池禅尼 └平頼盛
        │      
        ├平忠正──平長盛
        └─娘
    藤原有綱娘 ├──源経国、義高、忠宗、義清、義雄
     ├───源義忠
    源義家【清和源氏】
    
    「六代」とは、平清盛の祖父であり伊勢平氏興隆の基礎を築いた人物である平正盛から数えて直系の六代目に当たることに因む。
  • 六代こと平高清は鎌倉へ護送され、文覚上人の嘆願により一命を救われ僧侶(三位禅師)となる。しかし、頼朝の死後に起こった三左衛門事件に連座して文覚上人が隠岐へ流されると、六代こと平高清は相模田越川のあたりで岡部泰綱に斬られてしまう。
    六代こと平高清の死亡年については明らかではない。文献などにより建久9年(1198年)、元久2年(1205年)などとされる。

江馬輝盛  

  • 「小烏丸」は、斬られるまえに家臣の斎藤六へと託し、これが江馬輝経へと渡る。江馬氏は平経盛の後裔を称しており、その後「小烏丸」は江馬氏の重代の家宝となった。

異説  

  • 「飛騨国治乱記」では、この間の譲渡歴を北条時政庶子という江馬小四郎輝経なる人物に託し、直接江馬氏に渡ったとする。
  • 江馬小四郎輝経は、北条時政の死後飛騨に流されるが、この時、平家の重宝小烏丸の太刀青葉の笛、一文字の薙刀等を所持しており、後に伝えたという。
    「修理大夫経盛卿」は平経盛のこと。平敦盛らの父。一ノ谷の戦いで経正、経俊、敦盛ら子息のほとんどを失った。
     「江馬小四郎」は江馬輝経(えまてるつね)のこと。江馬氏の祖とする説もあるが定かではない。※ただし”江馬小四郎”とは鎌倉幕府2代執権北条義時(上記で輝経を飛騨に流した人物)の名でもある。

江馬時盛  

  • 戦国時代には、「小烏丸」は飛騨高原諏訪城主の江馬時盛が所持していた。
    「左馬頭時盛」は戦国時代の武将、江馬時盛(えまときもり)のこと。姉小路氏と飛騨の覇権をめぐってたびたび争ったという。天正6年(1578年)、甲斐の武田氏と手を結ぼうとしたが、それに反対した嫡男の輝盛によって暗殺された。富山県富山市(旧大山町)に中地山城を築く。
┌平清盛
└平経盛─┬平敦盛
     └江馬輝経……江馬左馬助……江馬時経─江馬時盛─江馬輝盛
   (江馬小四郎)

なおこの飛騨江馬氏は、室町幕府政所執事の伊勢氏(江戸期に「小烏丸(現御物)」を所蔵した家系)と関係があり、江馬氏を継いだ江馬左馬助は、政所執事伊勢貞宗の庶子という。「小烏丸」の項の系図参照。

江馬輝盛  

  • 江馬時盛の子とされるのが江馬輝盛である。
    江馬輝盛が、江馬輝経の17世の孫という。1573年、武田氏と手を結ぼうとした父時盛を殺害して家督を継ぎ、上杉氏と手を結ぶ。武田氏に従属した後、一時三木氏(姉小路氏)に従い。上杉方として越中国へ出陣するなどした。
  • 天正10年(1582年)6月、信長が本能寺の変で斃れると、飛騨においても勢力争いが再燃する。
  • 江馬輝盛は天正10年(1582年)10月、三千の兵を率いて三木頼綱と激突。三木頼綱は、牛丸親正(牛丸又太郎)、小島時光らと同盟し、二千の兵でこれを迎え撃った。
  • 江馬氏側の軍勢は三木氏の小島城城下に迫り、八日町において合戦が行われた。緒戦は江馬氏有利に進んだが、三木勢の伏兵に虚を突かれ混乱したところを、三木勢の発した銃弾が江馬輝盛に命中し討死した。

春丁→栂尾祐邦  

  • 江馬輝盛は死の前に「小烏丸」を妻に託して菩提所となった圓城寺の僧侶春丁に依頼し、妻の兄にあたる越中の住人栂尾兵衛祐邦に贈る。

    常陸介平輝盛有故、為三木頼綱入道之被滅、此時輝盛之妻、僧使春丁、以小鴉越中之住人與栂尾兵衛祐邦

川上小四郎→金森可重  

  • 天正10年(1582年)の春、輝盛の一族という川上小四郎は、越中の栂尾祐邦を殺害して「小烏丸」を奪い、これを天正15年(1587年)飛騨高山を領していた金森可重へと献上する。

    天正十年之春輝盛氏族川上小七郎忠尋到越中、密殺祐邦、奪小鴉歸矣、天正十五年小七郎忠尋以小鴉、飛陽大守捧金森出雲守源可重矣

    天正10年10月→天正10年へと、年月が遡り矛盾する。

    金森可重は長屋景重の子として生まれる。金森法印長近の嫡子長則が二条城で織田信忠ともに討ち死にしたために、長近の養嗣子となった人物。長近が美濃小倉山城を築城し、高山城を可重に譲って隠居したのは慶長10年(1605年)とされ、さらに金森可重が飛騨高山藩を襲封したのは慶長13年(1608年)8月の養父長近の死後になる。つまり、川上小四郎献上した時点や、家康へと献上する時点では、まだ飛騨高山は養父の金森長近が治めていた時代となる。しかしここでは「小烏丸の記」に従い可重とする。

将軍家→飛騨国分寺  

  • 慶長7年(1602年)、金森可重は「小烏丸」を家康へと献上する。
  • 家康が本多正信に尋ねた所、この刀は平氏の宝刀なので源氏である家康が所持するべきではないというので、飛騨高山国分寺の大僧都玄海へと下げ渡してしまった。
  • のち玄海の弟子である尊雄大阿闍梨が、薬師如来の宝殿へと納めたという。

異説:牛丸又太郎→飛騨国分寺  

  • 「小烏丸」と一文字の薙刀は牛丸又太郎が分捕り、一文字の薙刀は信長配下の金森長近へ献上されたと記し、「小烏丸」についてはのち飛騨国高山藩2代藩主となった金森可重から飛騨国分寺へ寄進された。

    一文字の薙刀牛丸後に金森家臣と成、長近卿へ差上、今に有るよし風聞有、小烏丸の事は今国分寺にあり何故国分寺に有や謂しれず

集古十種  

梅村騒動  

  • 明治維新の後、天領の飛騨国は当初飛騨県となるが、わずか1ヶ月で高山県となる。
  • 高山県知事として水戸藩士梅村速水(沼田準次郎)が就任するが、日用品まで専売制に変え、各種の商売を許可割にして運上金と称して税金を徴収したことから住民の反発を招く。
    梅村速水は、沼田久次郎泰誨の次男。天狗党(水戸藩尊攘過激派)の乱には加わらず、脱藩して江戸に出る。志士活動を行い、維新後の明治元年(1868年)に東山道鎮撫総督府より飛騨国出役を命じられた。
  • 明治2年(1869年)2月に梅村が京都出張している時に、高山で住民が蜂起、知らせを受けた梅村は揖斐・郡上両藩で兵を募り、兵士30人余りを率い萩原(現・下呂市萩原町)に宿泊する。激昂した住民千人あまりが萩原へ殺到するが、梅村はこれに対して銃を発砲し、死傷者が出る騒ぎとなった(梅村騒動)。
  • 梅村は東京刑部省へ移送され、明治3年(1870年)獄中で病死している。29歳。
  • 梅村速水は高山県知事時代にこの飛騨国分寺「小烏丸」に目をつけ、国分寺に対して何度も要求し、国分寺側では断るのに難儀したという話が伝わる。
  • その後高山県は、明治4年(1871年)の第1次府県統合に伴い信濃国、飛騨国の6県とともに筑摩県に統合された。その後、明治9年(1876年)に信濃国は長野県に、飛騨国は岐阜県に合併された。

現在  

  • 本刀、江馬氏伝来の「小烏丸」は飛騨国分寺に伝来し、のち重要文化財指定を受ける。
    飛騨国分寺近くにある明治3年創業の老舗麦落雁専門店「武藤杏花園」では、この「小烏丸」から名前を取った「こがらす」を販売している。
  • 大正元年(1912年)発行の高瀬羽皐「英雄と佩刀」で登場するが、平氏伝来の小烏丸(小鴉)ではないと否定する。

    然るに昨年であつたか、吾等の許へ書を寄て、飛騨の高山國分寺に小烏丸がある、彼刀は正しい傳來であるかト聞て来た、吾等も少々驚いた、小烏が二羽になつた、不思議な事ト「飛騨治乱記」を調べて見るト、(略)三木休庵と戦て戦死を遂げ小烏丸は國分寺へ敵方より奉納したトある、これは真とうの小烏丸では無論ない、初代の輝經が思ひ誤つて途方もない名を附けたものか、子孫に山師があつて造り設けたかいづれ正統の傳来ではない。

  • 現在も同寺所蔵(非公開)。




遠州浜松の「小烏丸」  

  • 遠州浜松の江馬氏にも「小烏丸」という太刀が伝わったとされる。
  • 遠州浜松の江馬氏は上記江馬氏の流れであり、本刀を実見した人の評価によれば伯耆大原一派の作のようだという。
  • 長二尺三寸、反り深く樋は鋩子先まで。
  • 前出の飛騨国分寺「小烏丸」とともに、高瀬羽皐が「英雄と佩刀」で紹介している。

    處が其後、濱松新聞にまた小烏丸が出て居る、平家の寶刀小烏丸と題し遠州濱名郡和知村江馬六郎トいふは舊家で、本國は大和、今の濱松が引馬の里トいつた頃この地へ移住し云々、茲に北北條家より授けられたる銘刀小烏丸トいふがあり、長二尺三寸、反り深く樋は鋩子先まで掻通し云々

  • ただし羽皐は高名な小烏造ではないことを根拠に平家伝来の小烏丸(小鴉)ではないと否定している。

    この濱松小烏は樋を鋩子先まで掻てあつて反りが高いト来て居る、シテ見れば長船時代の物でも有うか餘りお古い物とは思はれない、責て形でも似て居るかト思へば全く違て居る。

関連項目