永古坊

永古坊(えいこぼう)  

来歴  

  • むかし文明から永正にかけて起こった京極騒乱のあとの話。
  • 永正2年(1502年)の冬、京極高清が京極材宗との和議がなり、35年続いた家督相続争いはようやく終わる。京極高清は、それに奔走した重臣上坂景重にこの「永古坊」を与えた。
    2年後の永正4年(1507年)、京極材宗は高清に自害させられている。また京極氏はこの騒乱で力を失い、領国であった出雲、隠岐、飛騨を守護代や国人に横領され、また近江においても浅井氏に実権を握られ傀儡化する。
  • 上坂景重は「永古坊」を同職の浅見俊孝に贈る。
  • のち永正14年(1517年)3月19日に高清の嗣子京極高峰(利角斎)が家督相続の披露をしたとき、浅見俊孝がこの太刀を献上している。

    大将利角斎一々諸士に対面有りて、御盃を被レ下ける中にも浅見俊孝は永古坊と云家重代の太刀をぞ指上ける。

  • その後京極高峰が南近江を支配する佐々木義賢(六角承禎)と初めて対面した時に、これを義賢に贈っている。

    其後、此太刀江南佐々木義賢と利角斎初て対面の時、義賢所持

  • ある時佐々木義賢は、この「永古坊」で近臣の柳瀬十助と武田十兵衛を手討にしようとするが両人は逃げ出し、門扉に姿を隠した。
  • 義賢が永古坊を抜いて斬りつけると、門の閂の木を切り落としさらに両人をも袈裟斬りにした。そこで「関の木落とし」と命名したという。

    己が下部逃て門の扉によりそひて居たりけるを追駆討給ふに門の関木を切落し其下部を大袈裟に打おとされければ、それよりして名を改め関木落しと申ける。

  • その後佐々木氏(六角氏)の重臣高宮家に伝わったが、その後の行方はわからない。

    太刀今に高宮家来所持し高宮村に伝りけるとなり。

  • 高宮氏は六角氏頼(佐々木)の三男信高を祖とし、高宮(彦根市高宮町)・大堀・東沼波・西沼波・竹鼻の五箇村を領して高宮に城を築き高宮氏を称したという。
  • 浅井氏が六角氏からの独立の動きを見せるが、浅井氏の勝利に終わる(野良田の戦い)この時から高宮氏は浅井氏に従属し、姉川の戦いでも浅井朝倉方についている。