水野勝成

水野勝成(みずのかつなり)  

戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名
三河刈谷藩主、大和郡山藩主を経て備後福山藩の初代藩主
従五位下・日向守、従四位下
六左衛門、鬼日向

生涯  

  • 父は水野忠重。
    父である水野忠重の母は華陽院。忠重の兄弟には水野信元、於大の方などがおり、徳川家康の叔父にあたる。徳川二十将の一人。
                   加藤清正
                    ├────八十姫
           ┌水野忠守  ┌かな     │
    水野忠政   ├水野忠重──┴水野勝成  徳川頼宣(紀州徳川家)
      ├────┤      ┌松平康元
      │    │久松俊勝  ├松平康俊
      │    │  ├───┴松平定勝(久松松平家)
      │    └於大の方
    於富の方      ├────徳川家康(徳川宗家)
      │  ┌──松平広忠
      │  │    
      │  │  松平政忠
      │  │   ├─────松平康忠(長沢松平家、近江膳所藩)
      ├─────碓井姫
    松平清康 │   ├────┬酒井家次──酒井忠勝(酒井左衛門尉家、出羽庄内藩)
      ├──┘  酒井忠次  └本多康俊(伊奈本多氏)
    青木貞景娘
  • 天正7年(1579年)の遠江高天神城攻めで初陣。同年、徳川秀忠が誕生すると、勝成は乳兄弟とされた。
  • 翌天正8年(1580年)に、父の忠重が織田信長に引き抜かれて刈谷の大名になり、勝成は奥田城、細目城を任されている。第二次高天神城の戦いには織田方として参陣し、16歳にして首級をあげ信長から感状を与えられる。
  • 天正10年(1582年)になると、父のもとを離れ徳川家康の天正壬午の乱に参加している。

奉公構  

  • 天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは織田信雄の与力となっていた父忠重に従い徳川軍の石川数正と共に岡田善同の籠もる星崎城を攻略する。蟹江城合戦では家康の旗本衆と行動を共にする。しかし、自らの不行状を報告したとして父忠重の部下富永半兵衛を斬り殺したことから勘当され、さらに奉公構を出されてしまう。
  • その後しばらくは清須城下の寺に匿われるが、父の追求があり京都へ逃れる。京都でも刃傷沙汰を起こしている。

仙石秀久  

  • 天正13年(1585年)に四国征伐(第2次四国征伐)が行われることになると、仙石秀久家中としてこれに加わった。この戦の直後、勝成は豊臣秀吉から摂津豊島郡700石の知行を授かっている。
  • しかしこの頃父忠重が秀吉の直臣となったことから、間もなく知行を捨てて中国地方に逃亡し「六左衛門」と名乗るようになった。

佐々成政  

  • 天正15年(1587年)には肥後領主佐々成政に1,000石で召し抱えられており、成政の配下であった隈部親永の反乱(肥後国人一揆)では菊池城を攻めて一番槍をあげ、隈本城救援でも功名をあげた。成政の要請に応じた立花宗茂が反乱側に包囲されていた平山城を後詰めした際には、立花家の十時連貞、安田国継と共に働き城を救っている。

黒田孝高  

  • 乱後に成政が一揆発生の責めを受けて切腹させられ、小西行長が肥後を領することになると、豊前領主黒田孝高に仕官した。豊前国一揆では野中鎮兼が籠もる長岩城を攻めあぐねた黒田軍が退く際に後藤基次と殿を争った。
  • その後、豊臣秀吉に拝謁するため海路大坂に向かう孝高の嫡男長政に随伴したが備後鞆の浦で下船し出奔した。長政に操船の手伝いを命じられ憤慨したためとも、過去に秀吉の怒りを買っており大阪行きを嫌ったためともいわれる。

小西行長  

  • 天正16年(1588年)には小西行長に1,000石で仕官する。天正17年(1589年)の天草五人衆の反乱(天正天草合戦)では、行長の弟小西主殿介の副将を務め、当時小西家に仕官していた阿波鳴門之介と戦功を競った。
  • この後様々な逸話が残るが詳細は不明となる。

徳川家康  

  • 慶長3年(1598年)、秀吉の死去により豊臣政権が混乱の様相を呈し始めると、翌慶長4年(1599年)、勝成は妻子を残して上洛し徳川家康の幕下に加わった
  • のち家康の要請を受けた山岡景友の仲介により父・水野忠重と15年ぶりに和解する。
  • 慶長5年(1600年)には家康に従って会津征伐のため下野小山に宿陣している。この時、父水野忠重が三河池鯉鮒において、加賀井重望から西軍に誘われるも断ったために殺害されるという事件が起こっている。家康に従軍していた勝成は、一旦、刈谷城に帰り、三河国刈谷3万石の家督相続を命じられる。

関ヶ原  

  • 前哨戦である大垣城攻めに参加し、この時守将の福原長堯から名物日向正宗」を奪っている。
  • 慶長6年(1601年)5月11日に勝成は従五位下・日向守に叙任される。

大坂の陣  

  • 大坂冬の陣では、博労淵砦の視察を永井直勝と行う。11月29日の博労淵の戦いにおいて森隊が防寒して動かなかったために家康の指示で戦闘の収拾に出向き、この時「城和泉正宗」に名を残す城昌茂に代わり軍監となっている。
  • 夏の陣では大和口方面(大和方面軍)の先鋒大将に任じられる。5月6日河内国志紀郡道明寺村付近において後藤基次と交戦しこれを壊滅させた(道明寺の戦い)。
  • さらに誉田村に兵を進め、渡辺糺と戦端を開き、糺に深手を負わせている。

戦後  

  • 戦後、大和郡山に3万石加増の6万石で転封され、その後元和5年(1619年)、福島正則の改易に伴い備中西南部と備後南部の福山10万石を与えられる。※この時正則旧領の残り半分の広島側には紀伊から浅野長晟が入封している。
  • 寛永3年(1626年)には第3代将軍・徳川家光の上洛に従い、従四位下に昇進している。
  • 島原の乱の翌年、寛永16年(1639年)閏11月16日、嫡子勝俊に家督を譲り、一分斎と号する。慶安4年(1651年)3月15日福山城内において88歳で死去。

関連項目