毛利秀元

毛利秀元(もうりひでもと)  

戦国時代の武将
毛利元就4男である穂井田元清の長男(元就孫)
長門長府藩の初代藩主
母は村上通康の娘妙寿院。
右京大夫、甲斐守、正四位上侍従、正三位参議
羽柴安芸宰相

生涯  

  • 正室は大善院(豊臣秀長の娘、秀吉養女。慶長14年に死去)、継室に浄明院(松平康元の娘、徳川家康の養女)
    松平康元は、久松俊勝と於大の方の間に生まれており、徳川家康の異父弟にあたる。松平康元の娘は家康養女として大名に嫁いでいる。洞仙院は岡部長盛継室、流光院は菅沼定仍正室、満天姫(葉縦院)は福島正之正室のち津軽信枚正室、久松院は田中忠政(田中吉政の四男)正室のち松平成重継室、某(名前不詳)は大須賀忠政正室のち菅沼定芳正室、そして浄明院は中村一忠(中村一氏の子)正室となったのち毛利秀元継室となっている。
  • 幼名は宮松丸。

毛利宗家との関係  

  • 長く実子に恵まれなかった従兄である毛利輝元の養子となり、天正18年(1590年)に元服。
  • 文禄4年(1595年)に輝元に実子松寿丸(後の秀就)が生まれると家督相続を固辞した。
  • 文禄・慶長の役の後、慶長4年(1599年)に独立大名として別家を創設し、長門一国・周防吉敷郡及び父の遺領であった安芸佐伯郡を含めた合計17万石余を分知された。但し若年のため、安国寺恵瓊が後見人となっていた
      【沼田小早川家】
          小早川正平──┬小早川繁平
                 └問田大方
      【竹原小早川家】     │
          小早川興景━┓  ┝━小早川秀包──毛利元鎮(長州藩一門家老吉敷毛利家)
             │  ┃  │ (元就末子)
 毛利弘元─┬─毛利興元─娘  ┃  │
 【毛利家】├─毛利元就   ┌┸小早川隆景━━小早川秀秋(羽柴秀俊。備前岡山藩→改易)
      │   │    ├─五龍局(宍戸隆家正室)
      │   ├────┤ 
      │   │    ├─毛利隆元───毛利輝元───毛利秀就(長州藩毛利宗家)
      │┌─妙玖    ├─穂井田元清──毛利秀元(長門長府藩)
      ││       ├─小早川秀包(隆景養子)
      ││       └┰吉川元春
      ││        ┃  ├───┬吉川元長
      └│─娘      ┃  │   ├吉川元氏(長州藩一門家老阿川毛利家)
  吉川国経─┤ ├─吉川興経━┛  │   └吉川広家(岩国領→岩国藩)
 【吉川家】 ├─吉川元経     新庄局(大はうさま、熊谷信直の娘)
       └─吉川経世

文禄・慶長の役  

  • 文禄・慶長の役に参戦し朝鮮に渡海。
  • 文禄2年(1593年)6月に宇喜多秀家・伯父の小早川隆景らと共に晋州城を攻略した(晋州城攻防戦)。慶長の役では病気の輝元に代わって毛利軍3万を率いて右軍の総大将となった。
  • 慶長2年(1597年)に従兄の吉川広家らと共に再度朝鮮に渡り、加藤清正、黒田長政、鍋島直茂らと朝鮮軍の籠もる黄石山城を陥落させた(黄石山城の戦い)後、全羅道、忠清道を平定。天安に陣していた時、稷山で黒田長政が明軍と交戦中との急報を受けると、即刻救援に駆けつけ明軍の背面より突撃して撃退した(稷山の戦い)。

関ヶ原  

  • 関ヶ原の戦いの時点で毛利氏の運営は秀元及び恵瓊と吉川広家に委ねられており、このうち吉川広家と毛利家家老の福原広俊は密かに東軍に内通していたとされる。
  • 毛利軍は南宮山に陣取るが、秀元隊の前には吉川広家が陣取り、なおかつ内通の事情から出撃に反対して道を開けなかった。この状況に業を煮やした長宗我部盛親が出撃要請を行うが、秀元はそれに対して「いま兵達に弁当を使わせておる」と答えた(宰相殿の空弁当)。

    秀元兵卒ニ糧ヲ食セシムト称シテ時ヲ移ス、故ニ世之ヲ伝ヘテ宰相殿ノ穀弁当ト云ヘリ

長府藩  

  • 関ヶ原ののち毛利一門は大減封されたが、秀元は輝元より長門国豊浦郡・厚狭郡に6万石を分知され櫛崎城に移って長府藩主となり、東の周防国岩国領に封じられた吉川広家と並んで西の守りを任された。
  • 戦後、毛利家は中立違反を指摘され120万石のうち周防長門の2カ国のみに大減知される。しかしその後は将軍家と近づき、慶長18年(1613年)に継室として徳川家康の養女(浄明院)を娶り、大坂の陣にも参戦するなど江戸幕府から信頼を得る。
  • さらに吉川広家が慶長19年に隠居、元和2年(1616年)に福原広俊が家老辞任すると毛利秀元が宗家秀就の名代として幕府との折衝を務めるようになる。
                        池田光政娘
                  本多忠義娘   ├──┬毛利吉元【長州藩5代】
                    ├───毛利綱元 └本多忠次【三河挙母藩】
                 ┌─毛利光広【長府藩】
                 ├─宮松丸
                 ├─毛利元知──毛利匡広──毛利政苗【清末藩】
                 │    
                 │   【長州藩】
                 │┌毛利秀就──毛利綱広─┬毛利吉就
                 ││           └毛利吉広
毛利元就─┬─毛利輝元──────│┴毛利就隆【徳山藩】
     └─穂井田元清     │  │
         ├──毛利秀元─┼─松菊子   伊達綱村【仙台藩】
       村上通康娘     │         │
                 │ 稲葉正則 ┌万寿寺殿仙姫
                 │   ├──┼稲葉正往──稲葉正知【淀藩】
                 ├─万菊子  └土井利意
                 │
            永井尚政─│─永井尚征
                 │   ├───永井尚房【丹後宮津藩】
                 ├─長菊子     │
                 │       立花忠茂娘
            土井利勝─│┬土井利隆【下総古河藩】
                 │└土井利長   
                 │   ├──┯土井利意【西尾藩】
                 └─竹千代子 └娘

毛利宗家との対立  

  • 元和9年(1623年)には2代将軍・徳川秀忠から仕置を行うよう命じられるが、寛永7年(1630年)頃から秀就との間に軋轢が生じるようになる。対立の原因は秀元が宗主権を主張したり、嫡男・光広と秀就の娘の縁談を反故されたことなどが要因であった。不和は深刻化し、寛永8年10月5日に後見役を辞任。
  • 寛永11年(1634年)には秀就の弟で婿の毛利就隆を誘って長州藩からの独立を画策し、同年閏7月に3代将軍・徳川家光による朱印状交付が行われると、朱印状を受け取り独立しようとして実現せず、幕府からの仲裁を受けている。

晩年  

  • 秀元の宗家を軽んじた行状に激怒した秀就は秀元を処罰することも考えたが、秀元は御伽衆として将軍・家光と親密な関係にあったため、掣肘は容易でなかった。2年後の寛永13年(1636年)5月に幕府の仲裁で秀就と和解、晩年は江戸に住み、家光の御伽衆となる。
  • 慶安3年(1650年)閏10月3日、江戸で死去。享年72。光広が長府藩を継いだ。また、次男の元知は後に分与され清末藩を立藩した。

系譜  

毛利光広
長門長府藩の第2代藩主
毛利元知
長門国清末藩(長府新田藩)の初代藩主
松菊子
毛利就隆(周防下松藩・徳山藩の初代藩主)正室
長菊子
永井尚征(丹後宮津藩初代藩主、永井伝八郎直勝の嫡孫)正室
千菊子
山崎豊治正室 山崎豊治は、備中成羽藩主・讃岐丸亀藩初代藩主であった山崎家治の次男。のち山崎氏は無嗣断絶で改易となるが、豊治が備中成羽に5千石を与えられ交代寄合として復活、明治維新まで続いた。
万菊子
稲葉正則(小田原藩2代藩主、稲葉正勝の次男で、稲葉正成と春日局の嫡孫)正室
竹千代子
土井利長(土井利勝三男。西尾藩・刈谷藩)正室

逸話  

剛勇の将  

  • 剛勇の将であり、その武勇を秀吉・家康・秀忠・家光などに愛された。
  • 天正20年(1592年)4月11日には肥前名護屋城に向かう途中で広島城に立ち寄った豊臣秀吉と面会、輝元の継嗣と認められ、豊臣姓・羽柴氏と偏諱の「秀」の字を与えられ秀元と名乗る。
    この時に秀吉と秀元の絡むエピソードがあり、そこで厚藤四郎を拝領している。
  • 腕力が強く、碁盤の上に人を立たせてそれを両手で持ち上げたという逸話も残っている。

秀吉からの刀剣  

  • 天正20年(1592年)、光忠の刀、行光の脇指(短刀)を下賜されている。

    秀元卿、廣島におはせしに、秀吉公、名護屋御下向に付、藝州の内、西條と申す所御泊なれば、御迎として、秀元上らせ給ひし、秀吉公則ち御對面ありて、早々廣島へ罷歸り、御待設け仕るべしとの御諚にて、夜通しに歸らせ給ふ。翌日廣島より、一里餘り御迎に出でさせ給ひしに、上様御供衆の内二人参られ秀元へ躍懸をなされ候間、見物仕るべき由、御諚候なり、(略)信長以来の儀共御物語ありて、各に聞かさせられしとなり。秀元歸らせられ、明くる朝御参ありしに、御膳の上にて御盃頂戴あり。其時御諚に、是は三好長閑(釣竿斎三好政康)といひし者、所持せし行光の御脇差鷲の巣といふぞと仰せられ、又光忠の御腰物、是は御腰を離されず、不断差させられ候を、下さるゝの由、御意にて、御両腰を拝領ましゝゝて、御立の時、又御馬鞍置拝領させられ
    (毛利秀元記)

    翌日早朝、大夫殿被召寄、御腰物光忠御脇指行光被遣候
    卯月十四日(天正廿年)  安国寺
                 恵瓊(花押)
    (毛利家文書 一〇四一安国寺恵瓊外二名連署起請文)

日本丸  

  • 上記「鷲ノ巣行光」の後、名護屋に到着した秀吉は、朱印をもって秀元に大船建造を命じている。
  • この大船は、十八畳敷の座席が三間あったという。
  • この大船は朝鮮の役で兵糧弾薬を運ぶなど活躍するが、のち大政所危篤の報を受け、大坂に戻る秀吉が乗船、赤間関を通過するときに難破してしまう。詳細については「水手切り」の項参照。

鮭弁当  

  • 江戸時代、江戸城に出仕した際弁当に鮭の切り身を入れていた所、そのような「高価で珍しい魚」を羨ましがった諸大名が秀元に群がり、ほとんどを奪われてしまったという逸話がある。

茶の湯  

  • 茶の湯や和歌に優れ、古田織部の弟子となり、家光の御伽衆に加えられてからは家光に茶を点じている。


関連項目