樋口肩衝

樋口肩衝(ひぐちかたつき)  

肩衝茶入
大名物、漢作唐物
山井肩衝とも
静嘉堂文庫所蔵

由来  

  • 播州の郷士、樋口石見知秀所持にちなむ。

    樋口肩衝といふは。攝州の士樋口石見知秀が獻ぜし故とぞ。

  • 別名「山井(山の井)」とも呼ばれる。

    浅くともよしや又くむ人もなし吾にことたる山の井の水といふ古歌により名付たり。

来歴  

  • もとは樋口石見守知秀が所持。
  • 慶長5年(1600年)に家康に献上する。
  • 家康は、これを慶長15年(1610年)に伊達政宗に与えている。

    十四日松平陸奧守政宗駿府に參覲す。大御所樋口肩衝といへる茶入をたまふ。

  • 政宗の死後、子の忠宗は遺物としてこの「樋口肩衝」を将軍家光に献上するが、寛永17年(1640年)に帰国の挨拶の際に再びこれを拝領している。

    寛永十三丙子年政宗うせぬる時。その子忠宗より。遺物とてこれを大猷院殿に獻じければ。十七年忠宗歸國のとき又賜ひて。永く伊達の重寶となれりとぞ。

  • その後は長く伊達家の重宝となる。
  • その後「樋口肩衝」は、天保(1830年~1844年)ごろに大坂の金方炭保の元に「木葉猿」「灰被」などとともに預けられていたが、明治維新後に質流れで金方炭保に、さらに明治20年(1887年)頃岩崎弥之助の所蔵となった。

    明治十九年に渡辺驥氏が小堀家の名器を買われた翌年頃であつたか、岩崎彌之助男が仙臺伊達家より大阪の金方炭保事白山善五郎方に入質してあつた、一長持十品を買入れられた事がある。伊達家では天保時代に金子入用があつて其什寶正宗、青磁花入、樋口肩衝(一名山井肩衝)と云ふ漢作大名物茶入、利休所持木葉猿茶入、古瀬戸小肩衝及び灰被天目等を抵當として、炭保より何程かの金子を借受けられた。今其金額は分明せぬが、仙臺家よりは年々道具係を炭保に出張せしめて、蟲千萬端を取扱つたと云ふ事である。然るに維新前後遂に流質となつて炭保に残つて居たが、其後買手もなくて其儘になつて居たのを明治二十年頃ボツボツ茶器の買手が出たと云ふので岩崎彌之助男に持込んだ。是に於て男は其頃道具目利を以て同家に出入して居た、道元事小川元蔵を伴ふて大阪に赴き、一々彼が鑑定を經たる上一手に之を買取られたが、其頃は今日の如く入札を以て事由に売却すると云ふやうな方法も開けなかつたので、長持の儘個人間に取引が行はれたのであるから、其代償は今日の相場にして其中の一品だにも當らぬ程であつたらうが、兎に角道具移動第一期中の最も纏まつた取引と謂つて宣からう。炭屋は炭保、炭彦、炭善に分れて居つて、其後炭保は絶家し、炭彦も同様であるが、炭彦の道具は明治二十三年頃赤星彌之助氏が一手に引受て、同家の名品は多くは炭彦より得たと言はれた程である、彼のノンカウ茶碗七種の升茶碗とて、後年赤星家の道具入札の節六萬七千両で、磯野良吉氏の手に歸した者などは、矢張り其中の一品であつたと云ふ。
    (近世道具移動史)

    少し長いが、同書「仙臺家の一長持」の項を引用した。後半は炭屋に関する記述。炭屋炭保に預けられていた伊達家の什宝は、明治20年(1887年)ごろ長持ごと岩崎家に買い取られた。この当時、売立・入札という形式で取引は行われていなかったという。