桶丸

桶丸(おけまる)  

太刀
豊後行平
銘 元禄三庚午八月日 平安城則房 桶丸行平於武江写之

  • 佩き表に三鈷柄の剣と梵字、裏に旗鉾と梵字。

来歴  

  • 播磨守護赤松家の重代の太刀
  • 京都の蔭涼軒に寄進されていた。
    京都五山相国寺の塔頭鹿苑院の南坊にあった寮舎。将軍足利義満が建てさせたものに将軍義教が名づけたものとみられる。明応32年(1425年)の相国寺炎上で焼けるが影響年(1439年)に将軍義教により再建される。さらに応仁の乱で焼け、その後は再建されなかった。
  • のち赤松政則に返還することになり、明応2年(1493年)6月25日使者の別所則治に渡す。
    蔭涼軒は焼けているため別の場所に移されていたものか。
  • その後毛利家へ伝わる。
  • 天正16年(1588年)9月10日上洛中、毛利輝元はこれを黒田孝高へ贈っている。
  • その後の伝来が不明。


桶丸写し  

久留米藩  

  • 久留米藩有馬家は赤松庶流で、粟田口国綱作の桶丸が伝来したという。
  • 差表に「元禄三庚午八月吉日 平安城助房」裏「桶丸行平作 於武江写之」と在銘。差表に幡鉾と梵字、裏に三鈷柄の剣と梵字を彫った刀がある。
  • これは桶丸を豊後行平とする古剣書と一致するが、彫り物は到底行平の作とは思えない。

桶丸英尊圀作  

  • ほかに「桶丸英(はなぶさ)尊圀作」、裏に「于時慶応元冬 於相州関宿」と罪名の脇指がある。
  • これは脇指で彫り物もないため、赤付けの桶丸写しとは受け取れないという。




赤松政則(あかまつまさのり)  

室町時代後期の武将・大名
加賀半国・播磨・美作・備前の守護
赤松家の第9代当主

  • 嘉吉の乱で滅亡した赤松家を再興した中興の英主。管領の細川家に接近して中央政界での影響力を高めて従三位まで登り詰め、1代で赤松家の全盛期を築き上げた。

生涯  

  • 赤松家の第8代当主赤松満祐の従孫として生まれる。祖父は赤松義雅、父は赤松時勝。
  • 8代当主の赤松満祐は、嘉吉元年(1441年)に6代将軍義教を暗殺するという嘉吉の乱を起こしており、大名としての赤松家は一時滅亡していた。さらに政則が生まれる前の年(享徳3年、1454年)に同族の赤松則尚が播磨で挙兵したが、翌年に山名宗全に討たれている。
  • 幼少時、政則は父とともに京都建仁寺で養育されており、政則が生まれて7か月後の10月に父の時勝は死去した。政則の養育には家臣の浦上則宗が務めた。
  • 赤松旧臣が後南朝に奪われた神璽奪還のために吉野に入り、南朝後胤とされる一の宮、二の宮を殺害している。神璽の奪還にも成功した功により、長禄2年(1458年)8月に神璽は京都に戻り、赤松家の再興が認められた。

所領回復  

  • 赤松政則には幕府から勲功として加賀北半国の守護職のほか、備前新田荘、伊勢高宮保が与えられた。
  • 寛正3年(1462年)10月の京都土一揆で畠山政長に協力し鎮圧に功があり8代将軍義政より感状と太刀を与えられた。同年末に義政より政の字を拝領し元服、「政則」を名乗る。
  • 応仁元年(1467年)5月からの応仁の乱では東軍細川勝元側に与する。この時、赤松氏の旧領である播磨・備前・美作に侵攻し旧領を回復した。応仁の乱は、文明5年(1473年)に東西両軍の首脳である山名宗全・細川勝元が相次いで死去したため、翌年にそれぞれの後継者である山名政豊と細川政元が講和を結び収束する。この時政則が回復した旧領は分国支配を了承された。
  • この後、山名政豊との争いが続き、領国である播磨での支配も危うくなる。のち別所則治の助けを得て播磨での勢力を回復、坂本城の戦いで山名政豊を破り播磨支配を確立した。

従三位  

  • 以後、幕府に出仕して9代将軍足利義尚、10代将軍足利義材に仕え、勲功を重ねた。明応2年(1493年)、堺に在陣中に細川政元の姉である洞松院(めし)を娶っており、また明応5年(1496年)閏2月3日、政則は従四位下から従三位に叙位された。
  • しかし、従三位に昇進してからわずか2ヵ月後の4月25日に病気により急死した。享年42。
  • 赤松家の家督は、洞松院との間にもうけた子の「小めし」と一族の七条家の義村を娶わせ、婿養子として継がせた。

刀工  

  • 赤松政則は自ら鍛刀をしており、備前長船宗光に師事したという。
  • 14作が知られている。
  • 播磨国書写坂本、美作国大原、京都で鍛刀を行った。
赤松政則刀
美作大原で鍛刀した刀。表に八幡武大神、裏に春日大明神の彫物。