桜(さくら)  

バラ科サクラ属(スモモ属)の落葉樹
原産地はヒマラヤ近郊
現在は北半球の温帯地域に広範囲に分布する

日本列島がユーラシア大陸から完全に離れる以前、少なくとも数百万年前から、桜が日本列島に自生していたことがわかっている。

新生代の鮮新世(せんしんせい)(ヒマラヤ山脈の上昇が激しくなった時期)と見られている鳥取県三朝(みささ)層群から、カシワ、カエデ、ブナなどに混じってサクラの化石が発見されている。

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桜を鑑賞する歴史  

 

古来日本では、中国文明の影響を受け梅の花を鑑賞する文化があった。当時すでに桜の花を鑑賞する文化もあったが、朝廷文化では梅が優っている時期が200年近く続いた。

日本の政治の中心、紫宸殿の前に植えられた植物は古来「左近の梅、右近の橘」であった。

万葉集では「花」とは梅の花を指しており、歌に詠まれた種類を見ると、萩の140首、梅が120首なのに対して桜は40首にとどまっている。また家紋においても梅花紋などを採用する家系が多い。この梅は舒明2年(630年)に始まった遣唐使によりもたらされたという説がある。

コノハナノサクヤビメ  

  • 古事記では「木花之佐久夜毘売」、日本書紀では「木花開耶姫」と記される神話上の人名で、一説にコノハナは「木の花」、サクヤは「さくら」の転じたもの、ビメは「姫」であるという。
    伝承では、コノハナサクヤビメはニニギノミコトから求婚されるが、父オオヤマツミは姉のイワナガヒメと共に差し出す。ところがニニギノミコトは美しいコノハナサクヤビメだけを妻にし、イワナガヒメを送り返してしまう。コノハナサクヤビメが産んだのがホデリ(火照命=海幸彦)、ホスセリ(火闌降命)、ホオリ(彦火火出見尊=山幸彦)の三柱であり、ホオリの孫が神武天皇となる。古語においてら行がや行に転じる例は他にもある。
  • 木花之佐久夜毘売命を主祭神とする富士浅間本宮浅間大社では、その象徴として桜を御神木としている。

衣通姫(そとおりひめ)  

  • 衣通郎姫(そとおしのいらつめ)は、記紀で伝承される人物で、大変に美しい女性であり、その美しさが衣を通して輝くことからこの名の由来となっている。本朝三美人の一人とも称される。
    古事記では允恭天皇皇女の軽大郎女(かるのおおいらつめ)の別名とする。また日本書紀では允恭天皇の皇后忍坂大中姫の妹・弟姫(おとひめ)とされる。いずれにしろ允恭天皇の時代に人物ということでは一致している。允恭天皇は仁徳天皇の第四皇子。
  • 日本書紀巻第十三に、允恭天皇が衣通姫を桜にことよせて詠んだ歌が載る。

    花ぐはし桜の愛でこと愛では 早くは愛でずわが愛づる子等

    これほど美しい花(人)ならばもっと早くに愛でれば良かったという意味であり、これに皇后である忍坂大中姫が激しく嫉妬したため、天皇はやむなく衣通姫を河内茅渟宮へ住まわせることにしたという。

大伴家持  

  • 万葉集巻二十4360番に、大伴家持が天平勝宝7年(755年)2月13日に詠める長歌として「すめろぎのとほきみよにも、おしてる難波の國に、天の下しらしめしきと、今のよにたえずいひつつ、かけまくもあやにかしこし、かむながらわが大王の(略)」があり、さらにその反歌に桜の花を歌ったものがある。

    桜花いま盛りなり難波の海 おしてる宮(難波宮)に聞こしめすなへ
    (万葉集巻二十4361番)

    難波宮は、孝徳天皇の時代大化元年(645年)に一度遷都し、その後全焼する。のち聖武天皇の時代天平16年(744年)に再度遷都する。この年の2月、大伴家持は防人の検校を命じられこの難波宮に来る。この歌は難波宮に桜が植えられていたことを示すとされる。家持には、この他にも桜を詠んだ歌が多数残る。

嵯峨天皇  

桜の花は古くから日本にも自生していたが、梅に代わって現在のように春の訪れの象徴として、また観賞用の花として代表的な地位を占めるようになるきっかけは嵯峨天皇にある。

嵯峨天皇は桓武天皇の第二皇子。母は皇后藤原乙牟漏。

桓武─┬平城──阿保親王
   │
   ├嵯峨─┬仁明──────┬文徳─┬清和──┬陽成───元良親王
   │   │        │   │    │
   │   ├源信(嵯峨源氏)│   └惟喬親王└貞純親王─源経基(清和源氏)
   │   │        │
   │   └源融(嵯峨源氏)│             ┌朱雀
   │            │             │
   ├淳和──恒貞親王    └光孝──宇多──┬醍醐──┴村上
   │                     │
   ├葛原親王─┬平高棟            └敦実親王─源雅信(宇多源氏)
   │     │
   │     └高見王──平高望(桓武平氏)
   │
   └良岑安世──良岑宗貞(遍昭)

大同4年(809年)4月践祚。弘仁14年(823年)に異母弟の淳和天皇に譲位後も権力をふるい、承和9年(842年)7月に崩御。

弘仁2年(811年)あるとき嵯峨天皇が、牛車で地主神社(じしゅじんじゃ)を行幸された際に自主桜(別名「御車返しの桜」)が見事に咲いていたという。その時は気にせず通り過ぎたが、道すがら桜を思い出すと矢も盾もたまらず、もう一度あの桜を見たいので牛車を戻せと所望された。結局天皇は三度まで車を戻し、その桜を愛でられたという。

これをきっかけとして、朝廷では桜を愛でる風潮が起こり、歌にも詠まれるようになっていく。

ただし嵯峨上皇が院政を行った旧嵯峨御所(大覚寺)の宸殿の前庭に植わっているのは、左近の梅、右近の橘である。

「左近の桜」  

桓武天皇の御代、平安遷都の際にも紫宸殿前に植えられたのは「左近の梅、右近の橘」であった。

しかしこの梅があるとき桜に植え替えられた。

南殿桜樹者、本是梅樹也、桓武天皇遷都之時、所被植也、而及承和年中枯失、仍仁明天皇被改植也、其後天徳四年内裏焼亡ニ焼失了、仍造内裏之時、所移植重明親王家桜木也(古事談)

つまり、紫宸殿南の樹はもとは梅であったが、承和年中(834年~848年)に梅が枯れてしまったために、仁明天皇が植え替えられた。またその後、天徳4年(960年)に内裏が焼けた際にも焼失したが、その時は重明親王家に植わっていた桜を移したという。これだけでは960年には桜になっていたことしかわからない。

そこで別の書を見ると、承和12年(845年)にはまだ梅が植わっていたとされ、貞観16年(874年)には桜に変わっている。

天皇御紫宸殿、賜侍臣酒、於是、攀殿前之梅花、挿皇太子及侍臣等頭、以為宴楽(「続日本後紀」承和十二年二月一日条)

大風雨、折樹発屋、紫宸殿前桜、東宮紅梅、侍従局大梨等樹木有名皆吹倒(「日本三代天皇実録」貞観十六年八月二十四日条)

つまり「左近の梅」から「左近の桜」への植え替えは、承和12年(845年)以降の承和年中(834年~848年)に仁明天皇により行われたと見られる。

なお遣唐使は、寛平6年(894年)に菅原道真の建議により停止されている。当時世界有数の先進文明であった中華文明を吸収・消化し、我が国独自の文化(「国風文化」)への昇華がほぼ終わったのがこの頃であったともいえる。桜の花に象徴されるように、花を愛でる文化を吸収しながらも、日本独自ともいえる「桜を愛でる」という文化へと発展させたといえる。

醍醐天皇の勅命により編纂された「古今和歌集」では、桜を詠んだ歌が70首、梅が18首と逆転している。また源氏物語第8帖「花宴(はなのえん)」では、紫宸殿で催された桜花の宴の模様が描かれる。

世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし

如月の二十日あまり、南殿の桜の宴せさせたまふ。后、春宮の御局、左右にして、参う上りたまふ。




その後の桜  

醍醐寺  

京都南部にある醍醐寺は、真言宗醍醐派総本山の寺院。開基(創立者)は理源大師聖宝。山号を醍醐山(深雪山とも)と称する。

「花の醍醐」と称され、桜の名所として知られる。「古都京都の文化財」に含まれる世界遺産。また修験道当山派は、この醍醐寺三宝院を本寺とし、吉野金峰山(きんぷせん)を拠点とする。

貞観16年(875年)6月、聖宝が普明寺で祈念していたおり、五色の雲がたなびくのを見て近くの笠取山(醍醐山)に登った。故郷に帰ったかのような喜びを覚えた聖宝の前に一人の老翁(横尾明神)が現れ、湧き水を教えてくれた。聖宝は泉の水を飲み「あぁ、醍醐味なるかな」といってその水を醍醐水と名付けた。

  • 醍醐味とは仏教の涅槃経にでてくる最高の味の例え。

    譬如從牛出乳 從乳出酪 從酪出生蘇 從生蘇出熟蘇 從熟蘇出醍醐 醍醐最上 若有服者 衆病皆除 所有諸藥
     
    牛より乳を出し、乳より(らく)を出し、酪より生蘇(しょうそ)を出し、生蘇より熟酥(じゅくそ)を出し、熟酥より醍醐(だいご)を出す、醍醐は最上なり。もし服する者あらば、衆病皆除く。あらゆる諸薬の悉く其の中に入る。
    (大般涅槃経 五味相生(ごみそうしょう)(たとえ)

    現代でいうチーズのようなものと考えられている。

聖宝は、老翁に「ここに精舎を建立し仏法を広めたいのだが、仏法久住の地となるだろうか」と尋ねた。すると老翁は「この山は昔仏が修行したところであり、私はこの山の地主神である。仏法を広め衆生を救うのであれば、和尚にこの地を護ろう」と答え、姿を消したという。

のち醍醐寺は、「延喜の治」と呼ばれる天皇親政の時代を作り上げた醍醐天皇が、延喜7年(907年)に自らの御願寺とすると共に手厚い庇護を行い、その結果醍醐山麓の広大な平地に大伽藍「下醍醐」が発展することになる。

延喜9年(909年)4月、聖宝は病にかかり、宇多法皇、陽成上皇が普明寺に病気を見舞うが、7月6日入滅。享年78。

醍醐天皇  

醍醐天皇は、臣籍に降下していた源定省の長男・源維城として生まれ、父の皇籍復帰と即位(宇多天皇)に伴い、皇族に列することになった。寛平9年(897年)7月3日に元服すると同日践祚、同月13日に即位している。臣籍の身分として生まれた唯一の天皇である。

父宇多天皇の訓示「寛平御遺誡(かんぴょうのごゆいかい)」を受け、藤原時平・菅原道真を左右大臣として政務を任せる。その治世は34年の長きにわたり、摂関を置かずに形式上は親政を行い数々の業績を収めた。

延長8年(930年)に崩御すると、醍醐寺の北(現、伏見区醍醐古道町)後山科陵(のちのやましなのみささぎ)に葬られた。後に「醍醐天皇」と追号される。

「後」とつくのは、それ以前に「山科陵(やましなのみささぎ)」があったためで、天智天皇陵と比定されている御廟野古墳(ごびょうのこふん)がそれである。

和歌  

藤原定家  

藤原定家は、「歌聖」と称され「新古今和歌集」や「新勅撰和歌集」を撰進した。

人麻呂(柿本人麻呂)貫之(紀貫之)が亡くなりたる後には、ただ京極の黄門(京極中納言藤原定家)のみぞ。(いにしへ)を正し今を教へ、(ひとり)この道の(ひじり)なりける
(藤原定家全歌集 序文)

あるとき定家は宮中の桜に魅了され、夜間に宮中に忍びこんで庭の桜を持ち帰るが、翌朝発覚し天皇から咎めを受けている。

中宮彰子  

一条天皇の中宮彰子は、奈良の興福寺の東円堂にあった八重桜の評判を聞き、皇居の庭に植え替えようと考える。桜を荷車で運び出そうとしたところ、興福寺の僧が「命にかけても運ばせぬ」と行く手をさえぎった。彰子は僧たちの桜を愛でる心に感じ入って断念し、毎年春に「花の守」を遣わし、宿直をして桜を守るよう命じたという。「花の守」には八重桜の原産地である余野(よの)(三重県伊賀市予野)の村人を当てたため、当地は「花垣(はながき)の庄」と呼ばれるようになったという。今も花垣神社に残る。

奈良の都に八重桜と聞こゆるは、当時も束円堂の前にあり。そのかみ、時の后、上東門院、興福寺の別当に仰せて、かの桜を召されければ掘りて車に載せて参らせける。(略)この事、女院聞こしめし給ひて、「奈良法師は心なき者と思ひたれば、わりなき大衆の心かな。実に色深し」とて、「さらば、我が桜と名付けん」とて、伊賀国与野と云ふ庄を寄せて、花の盛り七日、宿直を置きてこれを守らせる。今にかの庄、寺領たり、昔もかかるやさしき事ありけるにこそ。(沙石集)

後に芭蕉が訪れて一句詠んでいる。

一里(ひとさと)はみな花守の子孫かや(芭蕉)

伊勢大輔  

一条天皇の時代、奈良の八重桜の一枝が宮中に献上された。本来受け取る役目は紫式部の予定であったが、新参女房であった伊勢大輔(いせのたいふ)の実力を試すために突然彼女にその役目を譲った。伊勢大輔が藤原道長に献上する際に、即興で詠めといわれて詠んだ歌が百人一首に選ばれている。

いにしえの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな
一条院御時、奈良の八重桜を人のたてまつりて侍りけるを、その折御前に侍りければ、その花をたまひて、歌よめとおほせられければ、よめる
(詞花和歌集)

九重(ここのえ)」は禁裏(皇居)を表す。「にほひぬる」は美しく咲き誇っているという意味。八重(やえ)九重(ここのえ)、そして(いにしえ)(古の都奈良)と今日(けふ)の対比、上の句に繰り返される「な行」の音が奏でる調べが華やかな見事な歌である。この歌は、「殿を始め奉りて、万人感嘆宮中鼓動す」と絶賛されたと伝わる。

百人一首  

藤原定家が晩年に作った秀歌撰「小倉百人一首」には、桜の歌が6首選ばれており、花では最多となる。ほかでは紅葉5、菊・梅・八重むぐら各1など。

花の色は うつりけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに
(9番:小野小町)
ひさかたの 光のどけき 春の日に 静心なく 花の散るらむ
(33番:紀友則)
いにしえの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな
(61番:伊勢大輔)
もろともに あはれと思へ 山桜 花よりほかに 知る人もなし
(66番:大僧正行尊)
高砂の 尾の上の桜 咲きにけり 外山の霞 立たずもあらなむ
(73番:権中納言匡房)
花さそふ 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり
(96番:入道前太政大臣 西園寺公経)

吉野  

奈良県吉野山は古来花の名所として知られ、中でも桜が多く、シロヤマザクラを中心に約200種3万本の桜が密集して植えられている。

地域ごとに下千本(しもせんぼん)中千本(なかせんぼん)上千本(かみせんぼん)奥千本(おくせんぼん)と呼ばれており、4月初旬から末にかけ山下の下千本から順に山上へと開花してゆく。

修験道  

吉野山から山上ヶ岳へかけての連峰は、古くより「金峯山(金峰山、きんぷせん)」と称され、吉野山の金峯山寺は修験道の中心地の一つであった。

修験道の開祖とされる役小角(役行者、えんのおづぬ)は、山上ヶ岳の奥深く入り込み、千日の難行苦行の果てに憤怒の形相もおそろしい蔵王権現を感得。その尊像こそ濁世の民衆を救うものだとして、桜の木に刻みこれを山上ヶ岳と吉野山に祀ったという。

日本各地の「金峰山」は、吉野金峰山の蔵王権現を勧請したことに因む。「御嶽(山)」も同様で、御嶽神社とは蔵王権現を祭った神社であり、金峯神社ともいう。総本社は吉野金峰山寺の蔵王権現堂。蔵王山も吉野から蔵王権現が勧請されたもの。

修験道当山派は、醍醐寺三宝院を本寺とし、金峯山を拠点として発展した。のち、本尊を刻んだ「桜」が御神木となり保護され、また金峯山寺への参詣が盛んになると同時に御神木の献木という形で桜が植え続けられた。

一方の修験道本山派は、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)を拠点とし、聖護院を本寺とする。

桜の名所  

  • 山内には数々の名桜がある。
夢見桜(桜本坊)
壬申の乱で吉野に逃げた大海人皇子(後の天武天皇)が夢に見たと伝わる桜。冬の夜に爛漫に咲く桜の夢を見るが、翌朝目を覚ますとこの桜1本だけが見事に咲いていたという。後、乱に勝利した天武天皇がこの桜の下に桜本坊を建てた。
四本桜
金峯山寺蔵王堂の正面にある4本の桜。元弘3年(1333年)、北条方に攻められた大塔宮護良親王(後醍醐天皇の第3皇子)がこの桜の前で最後の酒宴を開いたとされる。
天人桜
竹林院群芳園。うす紅のしだれ彼岸桜で吉野山内では最も長寿の老木といわれている。

西行法師  

鎌倉時代にはすでに桜の名所として有名であり、西行法師が奥吉野の金峯神社の近くに庵を結び、多くの吉野の桜に関する歌を詠んでいる。西行は元永元年(1118年)生まれ、文治6年(1190年)没。

なにとなく 春になりぬと 聞く日より 心にかかる み吉野の山
吉野山 さくらが枝に 雪ちりて 花おそげなる 年にもあるかな
吉野山 去年のしをりの 道かへて まだ見ぬかたの 花を尋ねむ
ながむとて 花にもいたく 馴れぬれば 散る別れこそ 悲しかりけれ
おしなべて 花のさかりに なりにけり 山の端ごとに かかる白雲
吉野山 こずゑの花を 見し日より 心は身にも そはずなりにき
あくがるる 心はさても やま桜 ちりなむのちや 身にかへるべき
空はるる 雲なりけりな 吉野山 花もてわたる 風と見たれば
雪と見て かげに桜の 乱るれば 花の笠着る 春の夜の月
願わくば 花の下にて 春死なむ その如月の 望月の頃(辞世の句)

また江戸初期には、西行に憧れ、のちに古歌に歌われた各地の名所旧跡を巡り歩いた松尾芭蕉も二度まで訪れている。

後醍醐天皇  

元弘の乱(1331年)の後、鎌倉幕府により隠岐に流された後醍醐天皇は、途中現在の岡山県でサクラの巨木を賞賛し愛でたと伝わる。この桜は「醍醐桜」として伝わり現存する。

その後京都に戻った後醍醐天皇だが、足利尊氏の離反により京都を追われ、この吉野に朝廷を開き(南朝、吉野朝とも)、醍醐天皇の治世である「延喜の治」を理想として「建武の新政」を行う。

後醍醐天皇は、尊良親王や恒良親王らを新田義貞に奉じさせて北陸へ向かわせ、また懐良親王を征西将軍に任じ九州へ、宗良親王を東国へ、義良親王を奥州へと、各地に自分の皇子を送り北朝方に対抗させようとした。

しかし、劣勢を覆すことができないまま病に倒れ、足利尊氏が将軍宣下を受けた翌年延元4年(1339年)8月15日に吉野に戻っていた義良親王に譲位(後村上天皇)、朝敵討滅・京都奪回を遺言し、翌日吉野金輪王寺で崩御した。享年52(満50歳)。

「太平記」によれば次のように遺言したという。

玉骨ハ縦南山ノ苔ニ埋マルトモ、魂魄ハ常ニ北闕ノ天ヲ望マン

  • 後醍醐天皇が詠んだ桜に関する歌も残る

    花に寝て よしやよしのの 吉水の まくらのもとに 石はしる音
    ここにても 雲井の桜 さきにけり ただかりそめの 宿と思ふに
    みよしのの 山の山守 事問はむ いまいくかありて 花は咲かなむ
    み吉野の 高嶺のさくら 散りにけり 嵐もしろき 春の明けぼの

醍醐天皇の治世を理想とした後醍醐天皇は、生前自ら「後醍醐」の号(加後号)を定めていた。亡骸は吉野山の如意輪寺内にある塔尾陵(とうのおのみささぎ)に葬られた。通常天皇陵は南面しているが、後醍醐天皇陵は北面している。これは北の京都に帰りたいという後醍醐天皇の願いを表したものだという。

足利尊氏は後醍醐天皇の菩提を弔うため、大覚寺統(亀山天皇の系統)の離宮であった亀山殿を寺に改め天龍寺(嵯峨嵐山、世界遺産)を建立している。開山は夢窓疎石。

天龍寺の当時の寺域は約950万平方メートル(約950ヘクタール、東京ドーム換算で213個分)もあり、東端は京福電気鉄道嵐山本線の帷子ノ辻駅あたりにまで及ぶ広大なものであったという。

亀山の名は、天龍寺の西方にあり紅葉の名所として知られた小倉山のこと。山容が亀の甲に似ていることから呼ばれた。藤原定家が宇都宮蓮生の求めに応じて、蓮生の小倉山荘の襖を飾る色紙のために選したのが小倉百人一首である。なお宇都宮蓮生とは鎌倉前記の下野宇都宮氏の当主、宇都宮頼綱のこと。この頼綱の玄孫にあたるのが、「鶴丸国永」の逸話で安達貞泰と間違われることがある宇都宮貞泰である。頼綱─泰綱─景綱─泰宗─貞泰

秀吉と花見  

吉野山の大花見  

文禄3年(1594年)の春、秀吉は公家衆、大名を従え吉野山に赴き花見を行っている。茶人、連歌師をも含めた行列は5千人を超えた。

吉水神社を花見の本陣と称して5日に渡って盛大な宴を催したが、この年吉野は長雨に祟られ吉野山に入って3日間雨が降り続いた。気を揉んだ秀吉は、聖護院道澄に対し明日も雨がやまなければ吉野山に火をかけると威し祈祷させると、翌日には晴れ渡ったという。

この盛大な大花見の模様は数々の記録に残り、徳川家康や前田利家ら後の五大老をはじめ、伊達政宗などの詠んだ歌や、催した宴での仮装の様子が伝わる。

花見の様子を描いたものが、「豊公吉野花見図屏風」(重要文化財指定、京都細見美術館所蔵)、「吉野花見図屏風」(大阪城天守閣蔵)などに残る。

秀吉は前年に下見を行い、山桜中心の山に彩りを加えるため、数千本の枝垂桜の苗を植えたという。

醍醐の花見  

秀吉は、最晩年である慶長3年(1598年)3月15日にも、京都醍醐寺三宝院裏の山麓において盛大な花見の宴を催している。

豊臣秀頼・北政所・淀殿ら近親の者を初めとして、諸大名からその配下の女房女中衆約1300人を召し従えた盛大な催しであったという。

京都伏見の東に位置する醍醐寺は、応仁・文明の乱を経て数多くの伽藍が焼け荒廃していた。これを再興したのが第80代座主である義演であり、義演を支援したのが秀吉であった。

秀吉は自ら指揮をとり、とくに「桜ノ馬場」から「やり山」までの350間(約640m)には吉野の桜をはじめとした700本もの桜を移し植えさせた。

醍醐寺三宝院庭園もこの時期に整備されたものであり、庭の主石として据えられている「藤戸石」は秀吉が聚楽第から運ばせたものである。

義演は、最大の支援者であった秀吉の死期が近いことを悟り、最後にこの大舞台を用意したとも言われる。醍醐寺は秋の紅葉も有名で、秀吉は秋の紅葉狩りも楽しみにしていたが、この醍醐の花見の5ヶ月後に薨去する。

現在でも毎年4月の第2日曜に「豊太閤花見行列」が開催される。義演の残した「義演准后日記」は慶長から寛永にいたるこの時期の貴重な史料となっている。

烈公と桜  

幕末の尊皇攘夷の流れを作った水戸徳川家は、徳川光圀の修史事業に始まる「水戸学」の影響から、徳川御三家でありつつ天皇家を敬う精神篤く、多くの勤王家を育成した。

その指導的立場にあったのが第9代藩主徳川斉昭(烈公は諡号)である。早くより改革的な政治を行い、藩校弘道館を設立して下士層から広く人材を登用、戸田忠太夫、藤田東湖、安島帯刀、会沢正志斎、武田耕雲斎、青山拙斎らを輩出した。

幕政参画と安政の大獄  

ペリーの浦賀来航に際しては老中首座・阿部正弘の要請により海防参与として幕政に関与し攘夷論を強硬に主張し、安政4年(1857年)に阿部正弘が死去し堀田正睦が名実共に老中首座になると、さらに開国論に対して猛反対し、開国を推進する井伊直弼と対立する。

第13代将軍徳川家定の将軍継嗣問題で井伊直弼と争うが敗れ、安政5年(1858年)に直弼が大老となって日米修好通商条約を独断で調印し、さらに慶福(家茂)を第14代将軍とした。

安政5年(1858年)6月に将軍継嗣問題及び条約調印をめぐり、越前藩主・松平慶永と尾張藩主・徳川慶恕、一橋慶喜らと江戸城無断登城の上で井伊直弼を詰問したため、逆に直弼から7月に江戸の水戸屋敷での謹慎を命じられる。さらに安政6年(1859年)には孝明天皇による戊午の密勅が水戸藩に下されたことが露見し、水戸での永蟄居を命じられることになり事実上は政治生命を絶たれた(安政の大獄)。

桜田門外の変  

この後安政7年3月には江戸城桜田門外において彦根藩の行列を襲撃、大老・井伊直弼を暗殺するという事件が発生する(桜田門外の変)。年来の将軍世継問題での混乱や、副将軍を自認する水戸家と譜代筆頭の井伊家の対立により、幕府の権威は地に堕ちる。尊王攘夷運動は西国諸藩を中心に高まり、幕末維新の流れは誰にも止められない決定的なものとなった。

烈公は新たな世を見ることなく、変から5ヶ月後の万延元年(1860年)8月15日に薨去。享年61(満60歳没)。

左近の桜  

この烈公が愛したのが「桜の花」であり、自らの愛用品にサクラの意匠を行っている。

また烈公の正室吉子女王は有栖川宮織仁親王の末娘登美宮(とみのみや。第12王女、15代将軍徳川慶喜の母)であり、その降嫁の際に贈られたのが紫宸殿の「左近の桜」の鉢植えである。

左近の桜は、初め小石川の後楽園水戸徳川藩邸に植えられたが、天保12年(1841年)に弘道館設立時に正庁玄関前に移植された。

この桜は梅の名所として知られる偕楽園(水戸)に今も残る。桜は昭和に入ってから一度枯れてしまうが、昭和38年に京都御所紫宸殿の左近の桜を再度根分けしたものである。

染井吉野(ソメイヨシノ)  

現在、日本の桜の名所のほとんどがこのソメイヨシノを主体とする。

葉より先に花を咲かせる見事な咲きっぷりと、あっという間に散ってしまう散り際のあっけなさが日本人の精神性と合っており、日本では他のサクラを圧倒する人気種である。いわゆる「サクラ開花予想」などはこのソメイヨシノを対象としている。

園芸品種  

ソメイヨシノは、エドヒガン(江戸彼岸)とオオシマザクラ(大島桜)の間の雑種で生まれた日本産の園芸品種(Prunus ×yedoensis ‘Somei-Yoshino’)である。

なお大島桜は日本特産種(固有種)で、伊豆半島南部伊豆諸島、房総半島など極めて限定的な地域にしか自生しない。

江戸末期から明治初期に江戸染井村(駒込)に多く住んでいた植木職人により作られたとされる。当初は名所にちなみ「吉野桜」として売りだしたが、吉野のヤマザクラとは別種であり混同することを避け、染井村の名を取り「染井吉野」と名付けられたという。

種子では増えない(自生しない)ため、各地にあるソメイヨシノは、すべて人の手により接木(つぎき)などで増やしたものである。

自然交配でも種子が出来、育つが、ソメイヨシノとしての形質を伝えないため、人手を介さなければ維持できない。

すべてのソメイヨシノは元をたどればかなり限られた数の原木につながり、それらのクローンといえる。このことは、すべてのソメイヨシノが一斉に咲き一斉に花を散らす理由になっているが、一方で特定の病気に掛かりやすく環境変化に弱い理由ともなっている。また江戸以前の花見といえば、ヤマザクラ(山桜)を指すことになる。

寄贈された桜  

ワシントンのポトマック河畔に植えられている桜は、日本から贈られたものとして有名である。

二度の挑戦  

当時の東京市長尾崎行雄が、第27代アメリカ合衆国大統領ウィリアム・タフトのヘレン夫人が「日本の桜を植えたい」という意向を持っていることを知り、日米親善記念および日露戦争の際に米国が日本に対して好意的だった事への謝意もこめ、贈ったものである。

早速1909年に桜二千本をアメリカに贈ったところ、ワシントンに到着した頃には害虫が発生しており、すべて焼却されてしまう。このため計画は見直され、高度な接ぎ木技術を持っていた静岡にある興津園芸試験場(農商務省農事試験場園芸部、現果樹研究所 カンキツ研究興津拠点)で接ぎ木するという方法が取られる。

荒川堤の五色桜を穂木とし、台木は兵庫県東野村で育てた山桜を静岡で接ぎ木し、明治45(1912)年に3020本が改めてアメリカに向けて贈られた。この苗木は見事害虫被害なくアメリカに到着し、ポトマック河畔に植えられた。

ワシントンに贈られた3020本のほか、ニューヨークにも3000本が贈られている。

「返礼」のハナミズキ  

この返礼として1915年にアメリカから贈られたのがハナミズキである。ハナミズキは北アメリカ原産であり、日本での植栽はこの時に始まる。またハナミズキの花言葉「返礼」はこの故事に由来する。

アメリカから贈られた40本のハナミズキの苗木は、日比谷公園や小石川植物園など国内16カ所に分植された。100年を経た現在は大半が枯れてしまったというが、世田谷深沢にある東京都立園芸高校にいまも1本だけ原木が現存し、2015年に樹齢100年を迎えた。

同校の初代校長熊谷八十三氏が、桜の苗木を接いだ当時の興津園芸試験場の場長であり、病害虫の発生しない桜の苗木作りに大きな功績を残したためであり、ハナミズキの苗木が2本分植されたものだという。

1980年代に荒川堤の桜が枯れてしまったときに、ポトマック川の桜がワシントンDCから東京都へ贈呈され、それを荒川堤に植えたこともある。

エリザ・シドモア(Eliza Ruhamah Scidmore)  

そもそもポトマック河畔に桜並木を作ることを提案したのは米国人紀行作家のエリザ・シドモアである。日本滞在中に観た隅田川向島の墨堤の古桜の美しさはシドモアの心を強く打ち、それは後に、故郷アメリカの首都ワシントンD.C.に桜並木を作りたいという願いになる。

エリザ(エライザとも)は1885年から1928年にかけ度々日本を訪れた親日家であり、日本に関する著作も残している。「日本・人力車旅情(Jinrikisha Days in Japan)」

日露戦争中の1905年(明治38年)タフト夫人は、陸軍長官時代のタフト大統領の来日に同伴し、宮中晩餐会に出席している。その際に、横浜領事館勤務の外交官であったエリザの兄ジョージ・ シドモアが、タフトの接待役として同伴している。ジョージ・シドモアは独身であったために、晩餐会に妹エリザを同伴させ、これによりエリザとタフト夫人ヘレンが出会うことになる。

この時確認されたのが「桂・タフト協定」である。米国のフィリピン統治と日本の朝鮮半島に対する優越支配とを相互に承認するというもので、この時通訳をしたのが外務次官珍田捨巳であり、ポトマック河畔で植樹した際、タフト大統領夫人のほか、この珍田の夫人も参加している。

これがきっかけとなって二人の女性は親交を深め、エリザは自らの夢である桜並木のことをタフト夫人に話した結果、それが尾崎行雄に伝わり実現したのである。まさに人の縁としか言いようがないエピソードである。

津波とシドモア桜  

エリザ・シドモアは、明治三陸地震のあと1896年にも日本に来ており、被災地に入って取材し、ナショナル・ジオグラフィック・マガジンに寄稿している。この記事により「津波(TSUNAMI)」という日本語由来の言葉が世界に広がったとされる。

"The Recent Earthquake Wave on the Coast of Japan" (ナショナル・ジオグラフィック・マガジン1896年9月号)

※彼女は1890年に設立間もないナショナルジオグラフィック協会に参画して正規の記者となり、後に最初の女性理事となった。

のち、1924年にアメリカ合衆国で「1924年移民法(いわゆる排日移民法)」が制定され移民受け入れの制限(対象は日本人だけではなく白人以外の全ての人間)が始まると、エリザ・シドモアはこれに反対し、スイスへ亡命、その4年後の1928年にジュネーブで亡くなっている。


彼女の墓は横浜にある。

生前新渡戸稲造と親交のあった彼女は、新渡戸のはからいで彼女の母と兄が眠る横浜外国人墓地に埋葬された。納骨の際、弔辞は新渡戸が読んでいる。

新渡戸稲造は教育者、思想家。「武士道(Bushido: The Soul of Japan)」により世界的に高名。東京女子大学初代学長、新渡戸文化短期大学(東京女子経済専門学校)初代校長。国際連盟事務次長。

横浜外国人墓地にあるエリザの墓碑の傍らには、1991年、ポトマック河畔から「里帰り」した桜が植えられ、「シドモア桜」と名付けられている。







近年、近隣某国がポトマック河畔に植えられたソメイヨシノの起源が自国にあることを主張しているという。しかし起源を語るのであれば、その花とともに生きてきた民族の歴史と文化もともに語って欲しいものである。これはなにも花だけに限らない。民族の文化というものは、こうして長い年月をかけて自然と人、人と自然、そして人と人とがからみ合って育まれるものであろう。