松本茄子

松本茄子(まつもとなす)  

唐物茶入
大名物 唐物茄子茶入 松本茄子
静嘉堂文庫美術館所蔵

  • 大正名器鑑所載

    松本茄子 漢作 大名物
    男爵 岩崎久彌氏蔵

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由来  

  • よくわかっていない。村田珠光の弟子、松本珠報の所持にちなむという。
    松本珠報は武士で茶人。号 周宝、永昌坊正楽。山名氏、畠山氏に仕えた。村田珠光に茶の湯を学び、のち京都東洞院に住して茶の湯三昧の余生を送ったという。この「松本茄子」のほか、「松本茶碗(青磁松本、本能寺で焼失)」、「松本肩衝(松屋肩衝、根津美術館所蔵)」などを所持した。

みをつくし茄子  

来歴  

  • 来歴概略
    村田珠光─松本珠報─織田信長─豊臣秀吉─徳川家康────┐
                                │
    ┌───────────────────────────┘
    │
    └藤重藤厳─岩崎弥之助
  • 村田珠光の弟子、松本珠報が所持したという。

    昔松本所持(山上宗二記)

信長  

  • のち信長の所持。

    松本茄子 内大臣信長公(東山御物内別帳)
    松本茄子 信長公所持(天正名物記)

    元亀二年八月十二日 信長殿岐阜御出城御飾
    御床に万里江山の繪かゝる、前に左小松右小島、棚の内は同前、火箸ほやなし、松本茄子方盆にて、蓼冷汁天目を前の数の臺にすゑて、信長公兩手に持出候。床の前勝手に置て、茶筌入同前也、玄哉茶堂也。

秀吉  

  • 信長の死後、秀吉の所有となる。

    天正十一年七月十一日晝 俄ノ也
    紹鴎茄子、松本茄子、出申候、卽京極茄子と御並べ申候て、御見せなされ候、何も盆に、松本茄子、筑州(豊臣秀吉)へ上り申候てより、今日初而面御開也
    (津田宗及茶湯日記)

藤重家  

  • 大坂の役ののち、家康の命を受けた藤重が探しだし、繕いを命じられる。
  • 父子はこの松本茄子のほか、九十九茄子、宗薫肩衝、針屋肩衝なども見つけ出し献上したため、家康は九十九茄子を藤重藤元に、松本茄子を藤重藤厳にそれぞれ与えた。

    名器寄に、元和元年五月廿八日、藤重藤元、藤厳父子を二條御城に召され、名物焼残の物焼跡にあるべし、罷越しよくよく穿鑿いたし可申旨仰付けるにより、夜舟にて下向し、夜晝の差別なく土灰の中を掘穿ちしに果して名物の茶入五つ尋ね出したり。まづ假繼ぎ六月十二日京都へ持上り申候、御茶入、新田肩衝、志貴肩衝、玉垣文殊、小肩衝、大尻張なり。御褒美として百石廿人扶持被下、同十四日又下向仕り、段々と吟味仕り、土を篩ひ申候處、付藻茄子、宗薫肩衝、針屋圓座、松本茄子四つ尋ね出し、廿六日京都へ罷上り差し上げ候處、繕ひ仰付られ、九月十六日までに繼立出来仕候處、御感に被思召候由にて、付藻を藤元、松本茄子を藤厳へ被下、元和元年十月中旬とあり。(眞書太閤記)

  • そのまま東照大権現拝領の家宝として藤重家が伝えている。

岩崎家  

  • 明治9年(1876年)、三菱財閥、岩崎弥之助の所有となった。この時弥之助は、兄である岩崎弥太郎から借金をしてまで買ったという。

    明治九年の暮、数へ日になつた時であつた、今村長賀翁が付藻松本兩茄子茶入(注 九十九茄子・松本茄子)を駿河台の岩崎邸に持参して此茶入を貴下に買つて頂きたいと云ふ人があるが如何で御座ると云ふ、其代償を問へば四百圓より一文も負らぬといふ、其頃岩崎男は三菱社で月給四百圓取つて居たが、今しも其月給を受取つて歳暮の小遣にしようと思つて居る處なれば、甚だ当惑して、之を買はんか否、断らんかと、暫時躊躇して居たが、頓て出入の道具商道元事小川元蔵を招きて彼の意見を尋ねしに、是れぞ正しく大名物茄子茶入で、金銭に替へ難き名品なれば、價を論ぜす御買上げあつて然るべしと云ふ。是に於て男も終に決心して、兄彌太郎君(注 岩崎弥太郎)を訪ひ事由を告げて四百圓借用を申込まれた處が、金は用立て申さんが返金する迄品は此方に預るべしと言はるゝにぞ、後年日本一の富豪と言はれた彌之助男も、已むを得ず茶入を抵当にして四百金を借り受け、首尾能く名物を手に入れた次第であるが、年末の小遣を棒に振つて茶入を買入れられた男の物数奇は大に敬服せざるを得ぬ
    (瓜生震の述懐)

  • 大正12年(1923年)2月に高橋義雄(箒庵)が実見している。此の時も岩崎久彌氏所蔵。

    此茶入は大阪落城後、藤重藤厳父子が家康の命を奉じて、第二回目に拾ひ出したる者なれば、第一回発見の新田・玉垣等に比して、破損の程度一層甚しく、七八分通りは漆繕ひにて、其景色は当時目撃者の記憶に依りて模作したる者なるべし。