松平忠輝

松平忠輝(まつだいらただてる)  

徳川家康の六男
母は茶阿局
幼名辰千代
従五位下上総介、従四位下左近衛権少将
越後少将

所持道具  

  • 忠輝は、次の刀や笛を所持したと伝わる。
三日月正宗
武田家が滅びた後、家康より拝領。のち水戸家へ伝わる。
星月夜正宗
同様に武田家滅亡後に拝領。のち水戸家へ伝わる。
無布施経真長
二尺五寸三分。のち前田家に伝来した。
乃可勢
織田信長愛用の一節切。豊臣秀吉、徳川家康と伝わり、家康が死期に際して茶阿局を介し忠輝に形見として託したという。諏訪市の貞松院に現存し、同市の有形文化財に指定されている。

生涯  

  • 天正20年(1592年)1月4日江戸城にて誕生。

    神君御鷹野の時、母子、夫父の敵を御詮議被レ下候様にと申上る。彼母子を上意にて駕篭に乗て岡崎城に帰御也、彼寡女御寵愛に依て男子二人を産す、松千代・辰千代君と号、双子也、松千代は御早世、辰千代君は後二十五万石を領し、上総介左少将忠輝卿と号す。

  • 一説に容貌が特異であり実父家康に嫌われたという。

    世に伝ふるは介殿(忠輝)生れ給ひし時、徳川殿(家康)御覧じけるに色きわめて黒く、まじなりさかさまに裂けて恐しげなれば憎ませ給ひて捨てよと仰せあり(藩翰譜)

  • 捨て子のしきたりで側近本多正信に拾わせ、下野栃木長沼城主皆川広照に預けられて養育された。
  • 慶長3年(1598年)に家康と面会。
    • 家康はこの時にも恐ろしき面貌といったという。

      恐ろしき面魂かな、三郎が幼かりし時に違ふところなかりけり

      面貌怪異、三郎ノ稚顔ニ似タリ

      三郎とは、家康の嫡男で自害させられた松平信康のこと。

  • 慶長4年(1599年)1月、家康の七男同母弟の松千代が早世、その後を受けて長沢松平氏の家督を相続し武蔵国深谷1万石を与えられる。

元服  

  • 慶長7年(1602年)に元服して上総介忠輝を名乗る。12月下総国佐倉5万石に加増移封される。
  • 上総介忠輝は武術を好み、騎射人に勝れたという。

    辰千代君は後に従四位下上総介忠輝卿と号す、此人素行行跡実相強、騎射人に勝れ、両腕自然に三鱗有り、水練の妙神に通ず、故淵川に入て蛇竜、山谷に入て鬼魅を求め、剣術絶倫化現の人也

  • 慶長8年(1603年)2月、信濃国川中島12万石に加増移封される。

従四位下左近衛権少将  

  • 慶長10年(1605年)4月6日、従四位下に叙し左近衛権少将に任じられる。
    ただし、忠輝は生涯を上総介で通したという。
  • 慶長11年(1606年)12月24日、忠輝は伊達政宗の長女五郎八姫を正室として娶る。
  • 慶長15年(1610年)、越後高田藩主に任じられ、川中島12万石とあわせ計75万石の太守に任じられた。
  • 慶長18年(1613年)4月、付家老大久保長安が中風で死ぬと「多数の財宝を横領していた」として大久保家は闕所となる。
  • 慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では留守居役。8月には家老花井吉成が大久保長安事件のあおりで自害している。

    (慶長19年10月17日)是より先、徳川秀忠、松平忠輝を江戸城留守居たらしむ、是日、忠輝、埴科郡松城を発せんとす

    (元和元年年9月)是より先、徳川家康、松平忠輝の驕惰を憤り、松平勝隆を越後高田城に遣はし、之に勘当を命ず、是日、勝隆、駿府に復命す、尋いで、忠輝、武蔵深谷に屏居す、後また上野藤岡に移る

家康死後  

  • 元和2年(1616年)4月、家康薨去。今際の際に秀忠・義直・頼宣・頼房らを枕元に呼びながら、忠輝だけは呼ばなかったという。

    忠輝、いそぎ発途して駿府へ参られ、宿老もて御気しき伺はれしに。家康は以の外の御いかりにて。城中へも入るべからざる旨仰下され。御対面も叶はざれば。少将(忠輝)せんかたなく御城下の禅寺に寓居して。御気のひまを伺ひて。謝し奉られんとする内に薨去

    松平忠輝、徳川家康の病を訪はんとし駿府に至るも許されず、是日、武蔵深谷に赴く、尋いで、同国藤岡に移る

  • 家康死の3ヶ月後である元和2年(1616年)7月6日、2代将軍の兄秀忠より改易を命じられ、伊勢国朝熊に流罪とされた。

    幕府、松平忠輝を伊勢朝熊に配し、その所領を没収す、尋いで、真田信之等をして、忠輝支配の諸城を請取らしむ

  • 元和4年(1618年)には飛騨国高山、寛永3年(1626年)には信濃国諏訪に流され、その後この場所で58年間を過ごした。
  • 天和3年(1683年)7月3日、幽閉先である諏訪高島城(南の丸)にて卒す。92歳。すでに5代将軍徳川綱吉の治世となっていた。
  • 墓所は長野県諏訪市諏訪の貞松院にある。
    流罪の一因として、舅伊達政宗の影響力をそぐため、また付家老大久保長安と近い間柄であったためともいわれるが、真相は不明。

赦免  

  • 流罪とされた忠輝が徳川宗家より赦免されたのは、死後300年経った昭和59年(1984年)であった。
  • 忠輝の菩提寺である貞松院の住職山田和雄が300回忌での赦免を思い立ち、徳川宗家18代目当主の徳川恒孝に願い出て実現した。

関連項目