松平忠昌

松平忠昌(まつだいらただまさ)  

結城秀康の次男
越前福井藩3代藩主
伊予守、正四位下参議

生涯  

  • 松平忠昌は、結城秀康の次男として慶長2年(1598年)に生まれる。母は、秀康家臣中川一茂の娘、清涼院。
  • 幼名は虎松。5歳の頃より秀康から永見吉次(毛受忠左衛門、のち永見志摩)らの家臣を附属された。
    忠昌には弟が3人おり、うち次弟の松平直政は秀康の三男として生まれ、のち寛永15年には出雲18万6千石を与えられ松江松平氏の祖となった。
  • 慶長12年(1607年)に祖父の徳川家康および叔父の徳川秀忠に謁見し、秀忠の側近くで養育され、英勝院(お梶、お勝)の猶子となる。

大坂の役  

  • 武勇に優れた血気盛んな性格で、大坂冬の陣の際は徳川秀忠の側で随行した。大坂夏の陣前には出陣許可を得るために急いで元服、1月8日に従五位下侍従、2月には従四位下に任じられる。
  • 希望通り慶長20年(1615年)の夏の陣に出陣し、大坂八町の一番乗りの功績を挙げる。忠昌の手勢が挙げた首級は57、うち自身で挙げた首級が2と記録されている。この際に使用した片鎌槍は、その後福井藩の大名行列のシンボルとなった。
    6代藩主綱昌の時、発狂を理由に強制隠居処分され、この片鎌槍の大名行列の際の使用も禁じられている。これまで福井藩主の就封の領地宛行状は国主を表す「越前少将」であったが、これ以降「福井侍従」と格下げされている。同様に江戸城の詰間についても、将軍家親族が詰める大廊下から外様の国持大名と同じ大広間へと移されている。
  • 大坂の役の活躍により、同年末に常陸下妻藩主であった頼房の水戸転封の跡、下妻藩3万石へ加増移封された。さらに翌年の元和2年(1616年)には松平忠輝改易の跡、信濃松代藩12万石へ、元和4年(1618年)には越後高田藩25万石へと加増移封されている。

    (元和2年7月25日)松平忠昌、川中島に封ぜられ、埴科郡松城城主となる

福井藩主  

  • 元和9年(1623年)には秀忠と折り合いが悪かった兄の松平忠直(結城秀康嫡男)が配流処分となったのを受け、寛永元年(1624年)7月越前北ノ荘(福井)50万石及び越前松平家附家老の本多富正を筆頭とする「武辺者の家臣105騎」を継承した。
  • 家臣の中には、大谷吉継の孫大谷重政もいた。
    この時、忠直には嫡子仙千代(後の松平光長)がいたが、仙千代には越後高田藩25万9000石が与えられ、越前松平家(結城秀康後裔)本家は忠昌が継ぐこととなった。

    忠昌は北ノ庄の「北」が敗北に通じるということで、福井城中の井戸から由来し、街の地名を「福居」と改めたとされている。さらにのち元禄時代に「福井」と改められたとされる。ただし元禄以前にすでに福居・福井が複数の文書で入り混じっている。
  • 寛永3年(1626年)に正四位下参議。
  • 寛永5年(1628年)に東照社を勧請。
  • 寛永11年(1634年)家光が上洛した際に忠昌も上洛しており、このときに50万5280石の領地判物を受け取っている。さらに翌年弟の松平直良が越前木本藩から越前勝山藩に移されるとそのうち2万石をも預けられのち加増された結果52万5280石となっている。
  • 正保2年(1645年)8月、江戸の霊岸島の中屋敷にて没。

刀剣  

逸話  

  • 正保2年(1645年)4月、この松平忠昌の江戸屋敷の向かいに屋敷を持ち、品行方正で知られた加賀藩世子の前田光高が、自邸での茶会の最中に突然死するという事件があった。
  • 翌日、酒豪で知られた忠昌を心配した将軍徳川家光が忠昌に使者を遣わし、御身は大切な体であることなので酒を慎むようにと伝えたところ、忠昌は一遍の狂歌をしたため家光への返事とした。「向い(の屋敷)なる加賀の筑前(前田筑前守光高)下戸なれど 三十一で昨日死にけり」。
  • この返事を受け取った家光は諭すのを諦めたが、忠昌は光高の4ヶ月後に亡くなった。

    越前宰相忠昌の邸光高の舘と相對す。忠昌常に大酒を好みしを以て、醫師某之を諫めたりしに、忠昌は『むかうなる加賀の筑前下戸なれど三十一で病死をぞする』との狂歌を以て之に應へたり

関連項目