杉山茂丸

杉山茂丸(すぎやましげまる)  

政治運動家、実業家
愛刀家で知られる
号 其日庵

概要  

  • 戦国大名龍造寺隆信の末裔で、実弟に龍造寺隆邦(杉山五百枝)、林駒生がいる。
    龍造寺隆信の長子、龍造寺龍丸が家臣に伴われ黒田長政の元で庇護され、播州の儒者杉山如庵の娘を娶ることとなった。この時長政手づから延寿国時の刀を下賜し、杉山三郎左衛門誠隆と名乗ったという。この経緯については「百魔」にて詳細に語られている。
  • 長男は作家の夢野久作(杉山直樹)。
  • 明治から大正、昭和初期にかけ、それぞれの時代の政界実力者と結び、経済や外交、内政などにさまざまな献策を行った人物。
  • 自らは官職も議席も持たない在野の浪人であったが、山縣有朋・松方正義・井上馨・桂太郎・児玉源太郎・後藤新平・寺内正毅らの参謀役を務め、政界の黒幕などと呼ばれた。

生涯  

  • 元治元年(1864年)に福岡藩士・杉山三郎平の長男として生まれる。
  • 明治13年(1880年)16歳の時に家督を相続し、諸国巡査の旅立っている。この時の様子が長男夢野久作の文章に出てくる。

    父は十六の年に、お祖父様を説伏せて家督を相続した。その時は父は次のような事をお祖父様に説いたという。
    「日本の開国は明らかに立遅れであります。東洋の君子国とか、日本武士道とかいう鎖国時代のネンネコ歌を歌っていい心持になっていたら日本は勿論、支那、朝鮮は今後百年を出でずして白人の奴隷と化し去るでしょう。白人の武器とする科学文明、白人の外交信条とする無良心の功利道徳が作る惨烈なる生存競争、血も涙も無い優勝劣敗掴み取りのタダ中に現在の日本が飛込むのは孩子が猛獣の檻の中にヨチヨチと歩み入るようなものであります。この日本を救い、この東洋を白禍の惨毒から救い出すためには、渺たる杉山家の一軒ぐらい潰すのは当然の代償と覚悟しなければなりませぬ。私は天下のためにこの家を潰すつもりですから、御両親もそのおつもりで、この家が潰れるのを楽しみに、花鳥風月を友として、生きられる限り御機嫌よく生きてお出でなさい」

  • 東京へ出ると、山岡鉄舟の門人となりさらに後藤象二郎や大井憲太郎などと知遇を得た。
  • 滞京一年半で帰郷するが、明治17年(1884年)には熊本の佐々友房から旅費を借りて上京し、伊藤博文を「悪政の根源、脱亜入欧、藩閥の巨魁」と目してその暗殺を企て、山岡鉄舟の紹介状を持って面会に成功するが、お互い国家のために身を大事にと逆に説伏されて断念する。

玄洋社  

  • 官憲の追求を受け、北海道に渡るなど各地を転々とするが、明治18年(1885年)に熊本県人・八重野範三郎の紹介により同郷である玄洋社の頭山満(とうやま みつる)に出会い、心服して以後行動を共にすることになる。
  • 頭山とともに福岡に戻った杉山は、玄洋社の経済基盤確立のため、頭山に筑豊炭田の取得を勧め、自らその資金調達に奔走、そのために当時元老院議官であった安場保和を福岡県知事に就任させた。明治21年(1888年)九州鉄道を創立する。
  • 玄洋社の機関紙「福陵新報」創刊などにも関わり、結城虎五郎とともに「頭山の二股肱」と呼ばれた。
    「福陵新報」はのち九州日報を経て、福岡日日新聞と合併し、現在の西日本新聞となっている。
  • またこの時期、玄洋社員・来島恒喜による大隈重信外相襲撃事件が起こり、多くの玄洋社員とともに杉山も嫌疑をかけられ収監されるという経験をしている。

財界への進出  

  • 明治25年(1892年)、第1次松方内閣による流血の選挙干渉事件などを経た後、頭山が松方の豹変に激怒して政界との関わりを絶った頃、杉山も玄洋社から離れた。
  • その後香港貿易に関わるがこの事業には失敗している。
  • 明治27年(1894年)、杉山は同郷の先輩である金子堅太郎の知遇を得て、経済政策を語り合うようになった。またこの前後、東京日日新聞主筆の朝比奈知泉と知り合い「暢気倶楽部」と呼ばれる会合を持つようになって伊藤博文・桂太郎・児玉源太郎・後藤新平と政界への人脈を広げた。
  • 杉山は金子と協力して工業資本の供給を行う興業銀行設立運動を行っている。明治30年(1897年)年に初めて渡米しアメリカの工業事情を視察、さらに翌明治31年(1898年)にも渡米して、世界の金融王J・P・モルガンと単独面会し、かつ巨額の借款を約定することに成功した。
  • 隈板内閣を経て第2次山縣内閣によって、明治33年(1900年)に「日本興業銀行法」が成立するが、外資導入に関しては貴族院や国内の銀行家の反対を受けモルガンからの借款は実現しなかった。

台湾統治への関与  

  • 台湾は明治28年(1895年)の下関条約により日本への割譲が決まっていたが、現地住民の抵抗などから乙未戦争へと発展し、その後明治31年(1898年)に児玉源太郎が第4代総督として就任し、民政局長には後藤新平が抜擢されたことから統治が進んだ。
  • 杉山は、児玉らに対して製糖産業による台湾振興を献策し、自らも製糖会社の設立に関わっている。台湾製糖株式会社は三井財閥、毛利侯を始めとした出資により明治33年(1900年)末に設立されている。
    この台湾製糖株式会社は、のち台糖株式会社を経て現在の三井製糖株式会社の一部となっている。

政友会創設・政界への関与  

  • 伊藤博文が明治33年(1900年)に立憲政友会を結成するに際して、杉山はその創設資金の一部を提供している。
  • さらに杉山は暢気倶楽部などを通じて陸軍の児玉源太郎と親しく交際し、後に桂太郎も加わっている。
  • 桂・児玉・杉山の三者による活動は、対露戦争回避および日露協商を主張する伊藤博文への対処が中心となっており、明治35年(1902年)1月、伊藤博文がロシアとの協商を目的にペテルブルク滞在中、桂内閣が電撃的に日英同盟を締結したのは、伊藤を「日露戦争の戦死者第一号」にしようという杉山の献策に従った政略であった。
  • また、明治36年(1903年)7月、桂内閣を攻撃していた伊藤博文が枢密院議長に親任され政友会総裁を辞任せざるを得なくなったのも、杉山が桂や児玉に伊藤の祭り上げを献策した結果であるという。

日露戦争の幕引きと満州鉄道設立  

  • 明治38年(1905年)の奉天会戦ののち、杉山は一民間人でありながら山縣に随行して満洲へ渡っている。杉山は奉天で児玉源太郎の宿舎に同宿し、そこで児玉から満洲の地誌などの資料を託され、戦後の満洲経営策を立案するよう依頼された。帰国後、杉山は半官半民の合同会社の鉄道会社創設を立案し、この案が児玉によって採用され南満洲鉄道株式会社(満鉄)が設立された。
  • 日露戦争後、日本は大韓帝国(旧韓国)の保護国化を進めることとなり、伊藤博文を韓国統監として派遣する。杉山は親日団体である一進会と親交を結び一進会の日韓合邦運動を支援するが、これは日本政府による日韓併合という結果となった。
  • 晩年には郷里の開発に力を注いでおり、博多港を築港するために株式会社を設立している。これは親友で船成金の中村精七郎が出資したものであったが、工事費の高騰により中村は破産し築港事業は頓挫している。
  • また関門トンネルを民間で開鑿すべく出資者を募り、政府に許可申請を行うまで進めたが、これは許可が降りずに後年政府により建設が行われている。
  • 昭和10年(1935年)7月17日に脳溢血で倒れる。
  • そのまま回復せず、2日後の昭和10年(1935年)7月19日没。享年72。

    今年の七月十七日、香椎の球場で西部高専野球の予選を見ている中に、雇人の小母さんが泣きながら電報を持って走って来た。
    「チチノウイツケツスクコイ」
    (略)
    翌朝、七月十九日の午前十時二十二分に三年町の自宅自室で父が七十二歳の息を引取った時、私は脱脂綿を巻いた箸と、水を容れたコップの盆を両手に支えて、枕頭に集まっていた数十名の人々に捧げ、父の唇を濡らしてもらったが、私は金城鉄壁泣かないつもりで、故意に冷然と構えていた。この際、つまらない顔をして見せるのは、他人様の迷惑であるとさえ考えていた。

    • 死の前後の様子は夢野久作「父杉山茂丸を語る」に詳しい。
  • 杉山の葬儀は増上寺で行われたが、その後郷里の福岡で玄洋社により社葬が行われた。
  • 杉山は生前医学にも並々ならぬ関心を寄せており、自宅にも医務室を設けるほどであり、死後遺体を医学研究のために献体することを遺言していた。
  • このため、没後杉山の遺体は東京帝国大学で解剖に付された。なお杉山の妻幾茂も、夫に従ったのか死去の際に献体しており、現在東大医学部には、杉山夫妻の骨格標本が並んで保存されている。


系譜  

  • 長男は作家の夢野久作。本名杉山直樹、出家名杉山泰道。
  • 長女瑞枝は東京慈恵会医科大学学長であった金杉英五郎の甥に嫁ぎ、次女たみ子は耳鼻咽喉科医の石井俊次に嫁している。
  • 孫はインド緑化の父と言われる杉山龍丸、詩人の杉山参緑。

刀剣  

  • 杉山は早い頃から本阿弥成重に刀剣鑑定の手ほどきを受けており、後年その養子成善に勧めて「本阿弥琳雅」と改名させている。
  • 自ら築地刀剣会を立ち上げ、それに網屋(小倉陽吉)も加わっている。主催が杉山、会主は網屋、判者を琳雅が務めていた。これは毎月行われ、竹中公鑒、小此木忠七郎、榊原鉄硯などが参加していたという。
  • 杉山茂丸が所蔵した刀剣の主なもの

重要文化財  

重要美術品  

その他  

  • 正宗短刀(号立田)
  • 正宗短刀(号吉野)
  • 堀尾吉晴所持、埋忠名鑑所載の相州秋広脇指
  • 西蓮の刀
  • 和泉守兼定 号朝霧
  • 酒井家伝来、兼氏刀
    • などを所持していたが、1923年(大正12年)の関東大震災でほとんどを焼失している。
    • 詳細は「関東大震災」の項参照

参考  

関連項目