本阿弥光徳

本阿弥光徳(ほんあみこうとく)  

本阿弥家九代当主
三郎兵衛
益忠

生涯  

  • 天文23年(1554年)の生まれ、元和5年(1619年)7月20日没、64歳
  • 通称は又三郎、三郎兵衛。諱は幸忠、益忠。
  • 秀吉から刀剣鑑定所を免許され、この後江戸期になっても本阿弥家が世襲することになる。
  • 子の本阿弥光室が跡を継ぎ10代当主となった。
  • 署名
    1. 慶長5年(1600年)蔵刀目録「本阿弥弥三郎」と署名
    2. 慶長8年(1603年)も同署名
    3. 慶長12年(1607年)に倫光を拝領。「松田三郎兵衛」

象嵌  

当麻
「又三郎」天正11年霜月
稲葉郷
「江 本阿弥 磨上之花押(光徳)」天正13年2月
兼光
元和元年、本多安房守。
池田正宗
正宗磨上 本阿弥(花押)
中務正宗
正宗 本阿(花押)/本多中務所持
大三原
大三原 二ツ筒 浅野紀伊守拝領 本阿弥光徳(花押)
城和泉正宗
正宗 磨上 本阿(光徳)
本多安房守長光
 
桑名江
義弘本阿(花押)/本多美濃守所持
へし切り長谷部
長谷部国重 本阿(花押)
長左文字
左 磨上 光徳

書物  

「日本鍛冶集」  

  • 刀工を国別に挙げた銘鑑。
  • 天正20年(1592年)に木村吉清に贈ったもの。
    木村吉清は伊勢守。光清。荒木村重、明智光秀、のち秀吉に仕える。奥州仕置後に大崎葛西両氏の旧領30万石を与えられるが、刀狩りを厳しく実施したことから葛西大崎一揆が起こってしまう。蒲生氏郷伊達政宗の援軍により窮地を脱するが領地没収されている。のち氏郷の客将として信夫郡(現福島市)5万石を与えられる。慶長3年(1598年)に蒲生氏が宇都宮移封となると独立した大名として取り立てられ豊後1万5千石を領するがその年に死去した。

「本阿弥光徳六十六ヶ条」  

  • 近衛家からのお尋ねに対して答えたもの。
  • 「小脇差多ク有ル物」「直刃物」など、66項目に分けて該当する刀工を並べたもの。

太閤御物刀絵図「光徳刀絵図」  

  • 中心と切先の図。石華墨でとった押形ではなく、刀を見て写生したものであるため「光徳刀絵図」と呼ばれる。「本阿弥光徳押形」
    1. 天正16年(1588年)極月3日、石田三成に進上したのが始まり。
    2. 文禄3年(1594年)6月14日には毛利輝元に進上している。
      輝元には別に進上しておりそれを元和元年(1615年)極月に埋忠寿斎が模写したものがある。これには寿斎が象嵌や磨上、金具製作をした注記が入る。
    3. 文禄4年(1595年)5月12日。進上の宛名なし。
    4. 慶長5年(1600年)2月22日。進上の宛名なし。

享保名物帳  

逸話  

  • ある時、家康から自慢気に相州正宗の脇差を「これは足利将軍家の重宝で尊氏の古い添え状もついている最上家伝来のものだ」と見せられる。
  • これに対して、光徳は焼き直しものであると言上する。家康から不興げに理由を問われると、尊氏は目利きではないため添え状は役に立たない。またその頃の正宗新身であると声高に答えた。
  • それが家康の癇に障ったため二度とお召がなかったという。

関連項目