本阿弥

本阿弥(ほんあみ)  

本阿弥は、刀剣の鑑定、研磨、浄拭(ぬぐい)を家業とする。
本阿弥三郎兵衛家
菅原姓を称し、家紋は「梅紋」を用いる
古くより「ほんなみ」と訛って発音する

Table of Contents

本阿弥氏  

  • 本阿弥氏は、もと足利将軍家の同朋衆の一人であり、刀剣の鑑定や研磨を担当していたという。大正5年発行の「光悦(天)」光悦会著は、本姓は菅原氏、五条高長の庶子であるとする。

    本阿弥の始祖妙本、諱は長春、實は従二位五條高長老年の庶子なるも、高長嗣子長經の子秀長の弟と称す。日静上人(尊氏叔父)に帰依し薙髪して妙本阿彌佛といふ、後、子孫其上下の二字を省きて本阿彌氏を冒せり。

    日静(にちじょう)、父は藤原北家の末裔上杉頼重、母は足利氏の娘と言われ、姉の上杉清子が征夷大将軍足利尊氏の生母にあたる。

    なお「古今鍛冶銘」では本阿弥の祖は順阿という同朋の従兄弟であったという。

  • はじめ同朋衆の習いで「妙本阿弥仏」と名乗っていたが、いつ頃からか前後の文字を取り「本阿弥」と名乗る。
  • 初代妙本(長春)は足利尊氏に刀剣奉行として仕えた。

    妙本足利尊氏に仕へて刀劍奉行となり、刀劍の鑑識に長ず。

  • その後、二代本妙、三代妙大、四代妙秀、五代妙寿、六代本光、七代光心、八代光刹と続く。六代目の本光は、松田氏の出身で妙寿の婿養子となり本阿弥家を継いだ。

    本妙、妙大、妙秀、妙寿、子孫相次ぐ。妙寿の門下に足利六世の将軍普廣院義教昵懇の士、松田右衛門三郎清信あり、鑑刀を好み其業にすぐれたり、妙寿子なかりしかば長女にめあはせて嗣子とす、これ六世本光にして本阿弥中興と称す、凡そ此時代より本阿弥家は刀剣鑑定、磨研、浄拭を以て其特有の家業となすに至れり

  • 九代光徳にいたり秀吉から刀剣鑑定所を免許される。

折紙台帳  

  • 長らく刀剣鑑定を務めた本阿弥家には、「留帳」という折紙発行の記録台帳があり、他にも、「本阿弥空中斎秘伝書」、「本阿弥光心押形」、「光徳刀絵図」など、先祖の残した押形本など多数の資料が残されていた。※留帳は関東大震災のおり消失。
  • その後享保4年(1719年)、江戸幕府八代将軍徳川吉宗から依頼を受けた本阿弥家十三代当主の光忠が、これらの中から健全なもの百六十八振り、消失したもの八十振り、合計二百四十八振りを選出し、それぞれに由来等を書き添えて同年十一月に幕府に提出したものが「享保名物帳」とされる。
  • 本阿弥家では、初代妙本の月命日である毎月三日に本家に集まり、合議の上折り紙(正真である証明書)を出す仕組みになっていたという。※このため本阿弥折紙は三日付けになっている。

系図  

本阿弥家
初代妙本─2代本妙─3代妙大─4代妙壽─5代妙寿─6代本光─7代光心─8代光刹─9代光徳─10代光室
        【尾形家】         ┌光琳
         尾形道伯         |
           ┠───宗伯──宗謙─┴乾山
          ┌法秀
 多賀宗春──光二 |       ┌日允
       ┠──┼光悦==光瑳 |   ┌光傳──光通──光春──光敬──光隆──光一
      ┌妙秀 |    ┠──┴光甫 | 
      |   ├宗知 ┌妙山  ┠──┼光山──光顕(加賀本阿弥家)
      |   |   |   ┌妙了 |  
      |   |   |   |   └光通
      |   └妙光 |   |
【本阿弥家】|    ┠──┼光室─┼光温─┬光達─┬光常─┬光忠──光勇──光純──光久
  光心──┼光刹─┬光徳 ├光栄 |   │   │   │
 (七代) |   |   └光益 └光的 └光珉 │   └光沢──光勢──四郎三郎
      |   ├光味─┬光伯  ┃      │   
      ├光意 └光淳 └光琢  ┃      └光順──光祐──六郎三郎
      |            ┃
      ├光政──光寿─┬光音 ┌妙春
      └光与     └光富 |
         茶屋清延─┬清次─┴道澄===延宗(宗古)
          四郎次郎|(道清)
              └長吉──良延
              (新四郎)(長以)




本阿弥本家  

本阿弥妙本  

  • 本阿弥家初代
  • 本阿弥家の始祖とされ、足利尊氏に仕え代々将軍家の刀剣の諸事を司るようになったという。
  • 没年については、文和2年(1353年)、文安元年(1444年)4月3日とがある。
  • 後者であれば、当時室町幕府に松田姓のものが数人いたために、それらの松田姓から出たという指摘と合致する。この場合五条家出自を仮冒したことになる。事実本阿弥家では次男以下は松田姓を名乗ったとも言われる。
  • 当時御供衆に小笠原備前守というものがおり、どうやらこの小笠原氏から刀剣鑑定の術を習ったと見られる。
  • 永享二年の記事に「妙基本阿」なる人物が登場する。

    卅日寅丙依妙基本阿相論事。奉行人傳仰旨。
    野遠屋妙基與同本阿彌相論泉州境觀阿「彌」跡聖遠屋并所々家倉等事。妙基雖申子細。不帶一紙支證之上者。任去應永廿二年十二月十一日觀阿讓状。本阿彌領掌不可有相違之由。所被仰下也。仍下知如件。
     永享二年十二月卅日肥前守
              左衞門尉

本阿弥本妙  

  • 本阿弥家二代当主
  • 同朋名「本阿弥」

本阿弥妙大  

  • 本阿弥家三代当主
  • 同朋名「寿阿弥」
  • 寛正4年(1463年)8月8日、将軍義政の生母である日野重子が逝去し、翌月9月18日に大赦が行われる。斯波義敏、畠山義就が赦免されているが、この時に寿阿弥も釈放され、父の本阿弥と共に御礼廻りをしたという。入牢の理由は不明だが、斉藤民舞少輔と共犯という。

    佐々木治部少輔御冤之事。以管領細川殿之状。以前披司露之。次齋藤民部并壽阿彌御免之事申之。與伊勢守被仰談而。可有御思案之由被仰出。仍於管領申此旨也。今晨御免之事。以勢州被仰出也。即治部少輔殿并民部共致出仕也。可被號勝智院之御寺。以何所可被定哉。思案而可注進之由。伊勢守申之。佐々木治部少輔方。齋藤民部。壽阿彌。其父本阿彌共來謝。而不勝灌喜也。(蔭凉軒日録)

    寛正四年九月十八日。非常ノ大赦ヲコナハレ。罪科人數多免許セラルヽ。其人數ハ。齋剛藤民部少輔。御同朋壽阿彌。本阿彌。佐々木治部少輔。觀世座彌三郎。笛吹又六。日親坊等也。(長祿寛正記)

ただしこの入牢の原因が嘉吉の乱の際の抜国吉の件だとすると、嘉吉元年(1441年)6月から22年間も投獄されていたことになる。

この時に日親上人も釈放されている。日親上人が関東で他宗を誹謗したために千葉介が怒り京都に送ったために寛正3年(1462年)に細川右馬頭預りとなり入牢したという。日親上人は、応永14年(1407年)生まれ、長享2年(1488年)入寂。

本阿弥妙秀  

  • 本阿弥家四代当主
  • 永正2年(1505年)6月23日没

本阿弥妙寿  

  • 本阿弥家五代当主
  • 永禄3年(1560年)正月26日没
  • 嗣子なし。

本阿弥本光  

  • 本阿弥家六代当主
  • 本姓松田氏で、本阿弥家に養子に入る。
  • 本阿弥妙壽の長女は松田右衛門三郎清信を婿に取り本光を名乗ったという。異説では三代妙大の養子となったという。
  • 義教に仕えた。
  • 天文3年(1534年)2月14日没

はじめ清信刀剣の故により将軍義教の忌諱に触れ獄舎に投ぜられしが、獄中に於て日蓮宗叡昌山本法寺開祖日親の高徳に帰依し、出獄後剃髪し日親の唱によりて本光と称す、是より本阿弥は本法寺の檀徒となり一門法華宗を報ずること篤く男子は名上皆光字を用ゐるを例とす

  • この本阿弥本光(初名松田清信)は、嘉吉元年(1441年)6月23日、将軍義教が赤松邸に出かける際に国吉の鯉口が緩いために何度も抜けるために入獄させられたという。しかし年代が合わないため、3代の本阿弥妙大ではないかと思われる。「抜国吉」の項参照

本阿弥光心(こうしん)  

  • 本阿弥家七代当主
  • 三郎兵衛
  • 「光心押形」の著者
  • 永禄2年(1559年)2月2日没、64歳
    没年齢を見ると、3代~7代までが直系卑属だけでつながったとは考えにくいため、いずれかが兄弟の関係、または5代妙寿と妙秀が早くに没し本光が松田家から養子に入りさら本光死後に7代光心が継いだとも指摘される。
  • 「光心押形集」弘治2年(1556年)3月の奥書。土屋温直の筆写本が静嘉堂に現存した。名物16振りを含み、当時の所有者として、安宅冬康、島井宗室、堺の樋口屋、一色藤長、松永久秀、今川義忠などの名前が見える。本阿弥家から三好長慶に売った相州正宗在銘の押形も載っている。

本阿弥光刹(こうさつ)  

  • 本阿弥家八代当主
  • 又三郎、三郎兵衛
  • 七代本阿弥光心の子で永正13年(1516年)生まれ。養子光二が家をついだあとに生まれるが、光二は別家をおこし、光刹が本阿弥宗家八代を継ぐ。
  • 通称は又三郎、三郎兵衛。
  • 天正9年(1581年)9月8日没、64歳

本阿弥光徳(こうとく)  

  • 本阿弥家九代当主
  • 天文23年(1554年)の生まれ、元和5年(1619年)7月20日没、64歳
  • 通称は又三郎、三郎兵衛。諱は幸忠、益忠。
  • 秀吉から刀剣鑑定所を免許され、この後江戸期になっても本阿弥家が世襲することになる。
  • 「光徳刀絵図」の著者

本阿弥光室(こうしつ)  

  • 本阿弥家十代当主
  • 天正11年(1583年)生まれ、寛永2年(1625年)11月26日没、42歳。
  • 折紙は慶長9年~寛永25年まで、花押は前後で変わる
  • 光徳の子
  • 通称は又三郎、三郎兵衛。諱は幸忠、直忠。
  • 秀忠に仕え、毎日2時間ばかり刀剣の目利きの指南をしたと伝わる。その時には、抜身をそのまま秀忠が手渡しで受け取るほど信頼を受けていたという。
  • 享保名物帳では、冨田江、無名藤四郎、中川江、五月江、大島行光骨喰藤四郎石井正宗(秋田正宗)、鎬藤四郎などに名前が残る。

本阿弥光温(こうおん)  

  • 本阿弥家十一代当主
  • 慶長8年(1603年)生まれ、幼名又三郎。
  • 通称は又三郎、三郎兵衛。諱は忠利、忠好。
  • 寛文7年(1667年)5月2日没、65歳
  • 折紙は寛永3年~寛文7年まで、花押は5度変わる
  • 享保名物帳では、上部当麻大兼光上杉江などに名前が残る。
  • 弟に光的、光由、光龍、光山の4人がいたが、それぞれ別家を立てた。
    • 「光温押形」:刀の切先と中心の押形。寛文元年(1661年)正月15日の奥書。

本阿弥光達(こうたつ)  

  • ある老中の刀剣購入に際して失策があり職を免ぜられ、家督相続せず子の光常に譲っている。
  • 貞享4年(1687年)8月28日没、66歳

本阿弥光常(こうじょう)  

  • 本阿弥家十二代当主
  • 三郎兵衛。諱は忠益。
  • 寛文7年~元禄9年まで、花押は2度変わる。13代光忠とともに「元禄折紙」または「元禄金銘」「元禄朱銘」と呼ばれる。
  • 宝永7年(1710年)8月15日没、68歳
  • 光温の孫
  • 享保名物帳では横須賀江に名前が残る。

本阿弥光忠(こうちゅう)  

  • 本阿弥家十三代当主(養子で入る)
  • 三郎兵衛。諱は忠陳。
  • 折紙は元禄9年12月~享保10年。12代光常とともに「元禄折紙」または「元禄金銘」「元禄朱銘」と呼ばれる。
  • 享保10年(1725年)9月20日没
  • 八代将軍吉宗の命により、享保4年(1719年)11月に享保名物帳を献上。

本阿弥光勇(こうゆう)  

  • 本阿弥家十四代当主
  • 三郎兵衛、諱は忠充、忠則。
  • 折紙は享保10年~宝暦10年まで。
  • 宝暦10年(1760年)12月23日没、57歳

本阿弥光純(こうじゅん)  

  • 本阿弥家十五代当主
  • 三郎兵衛、諱は忠宣。
  • 折紙は宝暦11年~明和8年まで。
  • この頃には、5つの拝領屋敷があったという。
    • 京都小川通実相院町
    • 江戸神田永徳町三丁目 445坪
    • 鉄砲洲船松町 556坪
    • 神田永富町四丁目 327坪
    • 上野広小路大門町 248坪
  • 明和8年(1771年)7月29日没

その後  

16代:光久(こうきゅう)  

  • 養子。
  • 三郎兵衛。諱は忠起。
  • 折紙は明和8年~寛政元年まで。
  • 寛政元年(1789年)閏6月12日没

17代:光一(こういつ)  

  • 養子、光敬の子。三郎兵衛。諱は光敬(忠皎)。
  • 折紙は寛政元年~文政8年まで。
  • 古刀秘苑」「新刀定規」の著者
  • 文政6年(1823年)9月16日没
  • この又三郎は早世

18代:光鑑(こうかん)  

  • 17代光一の次男。初め光隆の養子、兄の早世で復帰。
  • 亀三郎、三郎兵衛。諱は忠鑑。
  • 折紙は文政8年~嘉永7年まで
  • 嘉永6年(1853年)4月15日没

19代:忠明(ちゅうめい)  

  • 光仲
  • 18代光鑑の長男
  • 三郎兵衛、諱は忠明。
  • 明治2年(1869年)3月3日没

20代:忠通  

  • 柏原信治郎の次男、悌三郎。忠道、弘道。
  • 幕府瓦解の際に分家の徳太郎(公鑒)らと図って幕府の蔵刀を米倉に移し保管したという。
  • 宮内省御剣係
  • のち離縁、柏原一三と改名し旅館業を営む。
    • 子供の道太郎が6歳で家督を継ぐ。成人後靴屋となり、明治28年(1895年)広島で病死。



本阿弥分家  

光二系  

本阿弥分家(光二系)
光二─光悦─光瑳─光甫─光伝─光通─光春─光敬─光隆─亀三郎─光廉─俊蔵─清儀
 多賀高忠──次太夫
       ↓
  片岡家━━宗春    片岡
       ├─────┬乗信入道───┬長男
     ┌─二女    │       └光瑳
     │       └光二 ┌法秀  ↓
     │        ├──┼光悦━━光瑳
     │       ┌妙秀 ├宗知  ├───光甫
     │       │   └妙光 ┌妙山  ├─光伝
本阿弥妙寿┴─長女    │    ├──┼光室─┬妙泉
       ├──光心─┼光刹─┬光徳 └光益 └光温
  松田清信(本光)   └光意 └光味──光伯

本阿弥光二(片岡次郎左衛門)  

  • 本阿弥光悦の父
  • 本阿弥分家初代
  • 大永二年(1522年)生まれ、慶長八年(1603年)12月27日没、80歳。妻の妙秀は元和4年(1618年)7月5日没、90歳。
  • 幼名次郎三郎、次郎左衛門。清忠。
  • 片岡次大夫宗春が本阿弥妙寿の二女を妻とし、生まれた次男が次郎左衛門といい、これが本阿弥家に養子に入り光二と名乗ったという。これによれば光心と光二は従兄弟で義理の親子ということになる。
    本光の娘妙福ともいう
  • 本阿弥本家7代目の本阿弥光心の娘妙秀を妻とする。
  • 永禄年中に今川義元に仕えたという。この時、三河の松平竹千代(後の家康)も人質として今川家に滞在しており交わることがあったという。
  • 義元が竹千代に脇差を作ってやる際に、光二が木型を造り、それを島田鍛冶国房にやり二振り作らせた。出来のいいほうに光二に命じて拵えを作らせ竹千代に与え、もう一振りは光二が拝領したという。これは5代後の光伝まで代々差料としたという。
  • まだ越前府中領主であった小身の頃の前田利家とも交流があり、利家が出世すると扶持をもらうようになった。それが光山に引き継がれ加賀本阿弥と呼ぶようになったという。
  • その後信長と昵懇となり、毎日御前に罷り出けるという。

本阿弥光悦(こうえつ)  

  • 本阿弥分家2代
  • 永禄元年(1558年)生まれ、寛永14年(1637年)2月3日没。81歳
  • 次郎三郎。太虚庵、自徳斎。
  • 清友
  • 「光悦押形」の著者
  • 父は本阿弥光二(片岡次郎左衛門)、母は本阿弥光心の娘妙秀。
  • 父につづいて加賀前田家に仕え、2代前田利長、3代前田利常に二百石の知行を受けている。
  • 書を能くし、近衛信尹・松花堂昭乗と共に寛永の三筆の一人と称され、その書流は光悦流の祖と仰がれる。
  • 家康は、この本阿弥光悦に京都鷹ヶ峰の地を与え、本阿弥一族や町衆、職人などの法華宗徒仲間を率いて移住した。光悦の死後、光悦の屋敷は日蓮宗の寺(光悦寺)となっている。

本阿弥光瑳(こうさ)  

  • 本阿弥分家3代
  • 次郎左衛門。
  • 天正6年(1578年)の生まれ、寛永14年(1637年)10月5日没64歳
  • 片岡垂信入道の子で、光悦の従兄弟。光悦の嫡男徳善が元和9年に夭折したため光悦の養子となり、後を継ぐ。
  • 妻は本阿弥光徳娘の妙山。子に本阿弥光甫、日允がいる。

本阿弥光甫(こうほ)  

  • 本阿弥分家4代
  • 光瑳の子
  • 慶長6年(1602年)の生まれ、天和2年(1682年)7月24日没、82歳。妻は光室の娘で、同年11月没。
  • 三太郎、次郎三郎。諱は薫治。
  • 空中斎と号す。法橋、寛永18年(1641年)に法眼。

本阿弥光伝  

  • 光甫嫡男、加賀前田家お抱え。
  • 次郎左衛門、長門掾。
  • 法橋
  • 元禄9年(1696年)5月18日、71歳で没。妻は本阿弥光温娘とされる。病弱で子供はいなかったという。また由緒帳では「由緒無御座候」と妻がいなかったことになっている。
  • 三百石
  • 光悦以来の鷹ヶ峰の地を継ぐが、延宝7年に幕府に返上する。

本阿弥光通  

  • 光伝の弟で養子となり、兄の後を継ぐ。
  • 11歳の時に加賀前田綱紀に御目見得を許されている。
  • 四郎三郎、次郎左衛門(三百之助)
  • 三百石を相続する。

    右光通儀拾壱歳之時、光伝金沢江召連罷越、初而御目見得被仰付御用相勤申候、光伝儀元禄九年病死仕、同年十二月故光伝遺知三百石無相違被仰付、享保五年8月五拾壱ニ而病死仕候

  • 兄光伝の死の翌年に江戸に移住させられている。
  • 享保5年(1720年)8月11日没

本阿弥光春  

  • 光通子。
  • 次郎左衛門。永清。
  • 安永7年(1778年)6月25日没、59歳。
  • 妻は大番士奥田助左衛門の娘。安永5年7月死去。
  • 正徳3年5月28日に前田綱紀に初御目見得。
  • 「三百石 本阿弥次郎左衛門」「百五拾石 本阿弥十郎左衛門」
  • 享保元年にも御手入れをしている。

    御道具手入被仰付、右御用相済罷帰於江戸表銀子拝領被仰付、同六年故光通遺知三百石無相違相続被仰付、其後度々金沢江罷出御用相勤、宝暦八年五拾八歳ニ而病死仕候

本阿弥光敬  

  • 次郎太郎。清俊。
  • 寛延元年(1748年)8月に金沢に入り8代前田重煕にお目見え。宝暦5年(1755年)には父の名代として御道具御手入れを務め、銀十枚を拝領する。
  • 嫡男光一は本家に養子に出しており、十郎左衛門本阿弥光蘇の次男を養子に取る。
  • 寛政2年(1790年)8月14日没。妻は本阿弥三郎兵衛の養女で、寛政12年12月に死去。

本阿弥光隆  

  • 十郎左衛門本阿弥光蘇の次男。
  • 幼名三四郎。
  • 本阿弥光敬の養子となり、次郎左衛門と改名する。
  • 寛政10年(1798年)5月21日に29歳で死去。
  • 亀三郎が継ぐ

本阿弥光鑑(亀三郎)  

  • 養子。宗家光一の次男
  • 亀三郎
  • 文政5年宗家を継ぐ
  • 文化3年(1806年)に三百石を相続するが、宗家三郎兵衛家に跡継ぎがなく、本家を継ぐ。
  • 跡は光廉が継ぐ
  • 安政4年(1857年)12月11日没、61歳

本阿弥光廉  

  • 光恕の嫡子。
  • 亀三郎の養子となり継ぐ。
  • 次郎太郎。清之。
  • 目の具合が悪くなり、安政4年(1857年)剃髪、慶応3年(1867年)3月に隠居。明治4年(1871年)まで生存。
  • 妻は本家光鑑の養女で、天保13年(1842年)6月没

本阿弥之廉  

  • 光廉の嫡子。
  • 三男、三百之助、次郎三郎。
  • 俊策、俊蔵。
  • 安政2年結婚。妻は宗対馬守の医師、塩田揚庵の養女。子は、多喜雄、本阿弥寿禄、娘二人。
  • 明治4年8月12日病死。

本阿弥多喜雄(清儀)  

  • 本阿弥之廉の嫡男。
  • 父の病死にともない、明治4年11月15日相続。

光意系  

  • 宗家8代目光刹の弟である光心の三男。
  • 天正6年(1578年)摂津伊丹城主荒木村重が信長に叛旗を翻した際に帰順をすすめる秀吉の使者にたち、その功により洛北の一乗寺村の内、50石を知行として与えられる。
本阿弥分家(光意系)
光意─光祐─光作─光茂─光理─光通─光柳─九郎左衛門─政之丞─吉五郎─猪三郎─光栄─成章─平十郎

本阿弥光意  

  • 宗家光心の三男。
  • 慶長9年(1604年)8月2日没

本阿弥光祐  

本阿弥光作  

  • 江戸へ移住。
  • 寛文11年(1671年)7月25日没

本阿弥平十郎  

  • 成章の兄
  • はじめ病身により廃嫡。全快ののち弟より家督相続。

本阿弥成応  

  • 養子。直之丞
  • 成章の子

本阿弥成重  

  • 養子
  • 平十郎、もと江口倉次郎。
  • 金肌拭い法を発案した近代研磨の創始者。
  • 明治15年(1882年)7月16日没

本阿弥琳雅(りんが)  

  • 養子、同朋の子。
  • 山本氏、直之丞、成春。成善。
  • 明治44年(1911年)杉山茂丸の命名で琳雅と改名。
  • 昭和2年(1927年)9月23日没、68歳

本阿弥日洲(にっしゅう)  

  • 刀剣の研磨・鑑定を業とする平井千葉の長男。
  • 本名猛夫
  • 本阿弥琳雅(成善)に師事する。
  • 文化財保護委員会審査委員などをつとめた。
  • 昭和50年、刀剣研磨で重要無形文化財技術保持者(人間国宝)に認定された。
  • 平成8年7月13日88歳で死去。

本阿弥光洲(こうしゅう)  

  • 本阿弥日洲の子。本名は道弘。
  • 父に師事し、光意系本阿弥18代を継ぐ。
  • 平成26年、重要無形文化財技術保持者(人間国宝)に認定された。
  • 日本刀文化振興協会理事長、美術刀剣研磨技術保存会会長などをつとめる。


光味系  

  • 宗家8代目光刹の次男。
  • 初め松田弥三郎。
  • 家康が朝鮮出兵に当たり肥前名護屋に赴く際に船中でお使いをしたために知行百石を与えられた。

本阿弥光伯  

  • 明暦元年(1656年)7月5日没
  • 「本阿弥家刀剣鑑識書」

本阿弥光因  

  • 養子
  • 延宝6年(1678年)9月2日没

本阿弥光察  

  • 貞享元年(1684年)5月3日没

本阿弥光柏  

  • 七良右衛門
  • 享保8年(1723年)12月5日没

本阿弥光禹  

  • 七良右衛門
  • 明和3年(1766年)9月4日没

本阿弥光蹊  

  • 源蔵
  • 天明3年(1783年)3月7日没

本阿弥光諱  

  • 七良右衛門
  • 忠惟
  • 文化10年(1813年)12月18日没、58歳

本阿弥光以  

  • 源蔵
  • 天保8年(1837年)3月26日没、50歳

本阿弥光白  

  • 万三郎、七兵衛、七良右衛門、忠正。
  • 明治9年(1876年)3月17日没

本阿弥光賀  

  • 知三郎
  • 明治20年(1887年)6月29日没
    • 光賀の跡を門人の忠敬が本阿弥を自称して継ぐ

本阿弥光遜(こうそん)  

  • 明治12年(1879年)、上州前橋藩のお抱え医師川口孫太郎欽明の子として生まれる。
  • 通称定吉
  • 12歳、父とともに東京に移住。
  • 18歳のとき、師匠本阿弥成善(のち琳雅)の世話で断絶していた水戸本阿弥の光賀の名跡を、光賀の妻の親戚の娘と結婚するという条件で相続。本阿弥光遜を名乗る。
  • 日露戦争頃に独立し、大正3年(1914年)「日本刀」、雑誌「刀剣研究」を発行。日本刀研究会を設立した。
  • 大正14年(1925年)に「刀剣鑑定講話」、昭和17年(1942年)「日本刀大観」を出版。
  • 戦後70歳になると芥子庵宗甫と称した。
  • 昭和30年(1955年)77歳のとき、「日本刀の掟と特徴」を出版、翌7月26日死去。
  • 弟子に小野光敬(おの こうけい)。正倉院御物148口をはじめ、国宝重要文化財の刀剣類研磨を数多く手がける。昭和50年に人間国宝認定。平成6年6月29日、80歳で死去。


本阿弥光博(こうはく)  

  • 大正8年(1919年)生まれ。
  • 父の氏に伴い、家督を継ぐ。
  • 昭和42年7月に「光山押形」、昭和43年3月には「埋忠銘鑑」の復刻を行う。
  • 昭和48年には「日本刀鑑定法」を出版する。
  • 昭和54年(1979年)7月没。

光益系  

  • 宗家光徳の次男
  • 寛文5年(1665年)2月25日没、82歳

本阿弥光宿  

  • 太郎左衛門
  • 元禄7年(1694年)2月7日没

本阿弥光務  

  • 又左衛門
  • 光宿の弟
  • 元禄7年(1694年)8月4日没

本阿弥光懌  

  • 太郎左衛門

本阿弥光律  

  • 元文2年(1737年)2月29日没

本阿弥光賀  

  • 養子
  • 光察の次男

光的系  

  • 宗家光室の次男。
  • 貞享4年(1687年)2月29日没、84歳

本阿弥光怡  

  • 市郎兵衛
  • 元禄4年(1691年)7月7日没

本阿弥光是  

  • 市三郎、市郎兵衛

光由系  

  • 宗家光室が光瑳の次男を養子にもらい三男としたもの。
  • 十郎兵衛
  • 元禄2年(1689年)5月3日没

本阿弥光和  

  • 十郎兵衛

本阿弥光安  

  • 若松屋久兵衛
  • 享保19年(1734年)9月1日没

本阿弥光寿  

  • 養子
  • 寛政元年(1789年)9月12日没

光竜系  

  • 宗家光室の四男
  • 寛文10年(1670年)4月26日没

光山系  

光山─光貞─光顕─光蘇─光恕(長根)─光佐─長識─親善

本阿弥光山(こうざん)  

  • 光二系四代目光甫の五男。
  • 寛永11年(1634年)生まれ、正徳4年(1714年)9月18日没、81歳
  • 通称、大学。諱は親矩。
  • 宗家光温の五男という名目にして分家させた。

本阿弥光貞  

  • 若い時から朝廷に出入りし、覚えがめでたかったため下総掾を下された。
  • 宗家の本阿弥光常の了解を得ていなかったために光常が怒り、光貞の家督相続を承認しなかった。

本阿弥光顕  

  • 亀松
  • 光山系の本家にあたる光通のもとで稽古に励み、22歳の時光常の怒りを解き嫡孫丞祖で光山の跡を継いだ。
  • 「鑑刀規範」と名付けた鑑定書はこの光顕が著述したもの。
  • 男子がなく、妹の子親俊を養子とした。

本阿弥光蘇  

  • 十郎左衛門。光山の孫
  • 光顕の甥で養子となる。
  • 加賀藩より百五十石
  • 次男が三四郎。光敬の養子となる。
  • 本阿弥十二家では光意系の光栄と並んで目利きとされた。
  • 明和4年(1767年)9月~10月にかけ出羽秋田城下をはじめ各地をまわり、この時に鑑定した刀は1490余振りに及んだというが、これに対して1900余の極めを出している。つまり、全部を合格とした上で、さらに小札と添え状を二重に発行したものがあったことになる。
  • 新刀を研ぎ減らして郷義弘に仕立て、尾州徳川家に売り込もうとしたのが露見し、御役御免になった。

本阿弥光恕(芍薬亭長根)  

  • 本阿弥長根
  • 三太郎、六郎右衛門、重郎左衛門。諱は親平、忠純。光恕は法名。
  • 加賀本阿弥家、光悦七世の孫。光蘇の長男
  • 明和4年(1767年)生まれ、弘化2年(1845年)2月10日没、79歳
  • 光蘇の百五十石を継ぐ
  • 嫡子は光廉で加賀本阿弥を継いだ。
  • 数多くの著作を残す
    • 校正古刀銘鑑」…唯一の刀剣書。本家から発禁処分にされる。
    • 名物剣集」…名物帳(享保名物帳)。はじめて上中下の分類などを行った。さらに由来を詳しく書き込んでいる。現在名物帳と呼ばれる写本の元となっている。

本阿弥光佐  

  • 勝三郎、正三郎、喜三二、忠恕
  • 文久2年(1862年)7月29日没

本阿弥長識  

  • 敬蔵、喜三二、正佐。
  • 明治26年(1893年)12月13日没
  • 本阿弥の若手を連れて前田家に赴き、同家の蔵刀で鑑定会を開いたという。
  • 明治2年(1869年)宮内省に御剣係が設けられると一員に選ばれている。
  • 焼き直しを看破するのが特異であったため「焼直し本阿弥」とあだ名されたという。
  • 明治17年(1884年)には「空中斎草鈔」を出版して本阿弥全家の系譜を明らかにし「本阿弥行状記」を転載して先祖顕彰に務めた。

光珉系  

  • 宗家光温の三男
  • 庄兵衛。
  • 延宝6年(1678年)10月8日没

光達系  

  • 宗家光温の長男だったが廃嫡となった。
  • のち健康も回復したため、弟の光常の奔走で絶家となっていた光徳弟の光淳の家を再興という名目で別家独立を許された。
  • 貞享4年(1687年)8月26日没、66歳

本阿弥光順  

  • 六郎右衛門
  • 元禄16年(1701年)4月14日没

本阿弥光祐  

  • 享保16年(1731年)12月2日没

本阿弥光葆  

  • 熊次郎
  • 天明8年(1788年)6月18日没

本阿弥宗円  

  • 吉十郎、忠恒、光謙
  • 天保2年(1831年)12月月没

本阿弥光円  

  • 養子、三二郎、光之丞、忠政、宗平
  • 元治2年(1864年)正月20日没

竹中公鑒  

  • 幕末の当主は公鑒で、明治2年(1869年)に御剣係が置かれると任命される。同4年にその制度が廃止された後も宮内省属として居残り、調度課長になっている。
  • 通称徳太郎。諱は仁信。
  • 本阿弥宗之丞の養子。本阿弥長識に師事。
  • 明治になって宮内省に奉職した際に、姓を本姓である五条家ゆかりの竹中に改め、竹中公鑒を名乗る
  • 当時の刀剣界では、今村長賀高木復と共に三傑と称されるほど傑出した鑑定眼を持っていた。
  • 鑑定入札も盛んに行い、外したものは必ず手に入れて研究をしたという。
  • 明治33年(1900年)に創立された中央刀剣会では後年刀剣審査員に推され、国宝制度ができるとその調査員に任命されている。
  • 太刀や拵えで気に入ったものは必ず模造し、遺愛刀のうち遊就館に陳列された刀はこの模造させた拵えか、自ら考案した拵えがついていたという。
  • 昭和2年80歳で没。

光沢系  

  • 光温の次男、光円の長男主馬が木村家を継いだため、弟の光沢が家督相続した
  • 宝暦5年(1755年)7月19日没

本阿弥光勢  

  • 養子、四郎三郎、又左衛門、伊勢大掾

明治以後  

  • 江戸時代に入ると幕府から刀剣極め所を仰せつかり、禄を受けるようになる。
  • 明治維新で徳川幕府が瓦解すると、本阿弥家は極め所のち糸同時に禄も失うが、新政府の配慮により宮内省御剣掛に任命される。
  • 御剣掛には、本阿弥家八軒のほか薩摩川南門次盛謙らも加わっており、宮内省では本阿弥の名で折紙を出すことを禁止し、御剣掛全員の連署で折紙発行させた。しかしこの制度も1年程度で廃止される。

関連項目  

  • 「本阿弥留帳(ほんあみとめちょう)」:本阿弥家に鑑定に出された刀の記録。慶長から安政に至る間で、和綴じ本が360冊とも380冊ともいわれる。刀がくるとまず手控えを作っておき、数年分が纏められ留帳として綴じられていた。安政初年で終わっているのは、まとめる前に明治維新が来たためである。
    • 第一冊之書き出しは「慶長廿年より元和中 御城の写外 寛永十二年迄」とあり、第一行目は「一 金三十五枚 順慶左文字」で始まっている。
    • 寛永頃から詳細な記録が始まり、後には疵なども記録するようになっていった。

      一 金二十枚 蜂屋長光 一尺八寸六分
      表裏樋但まちより少し上にてかき留、表樋の内まちより一寸計上にうめがね有、中心先少きる。此刀前に太閤の御物、後松尾殿より来る。貞享三年奥平家より来、三十枚に上る

  • 「本阿弥光柴押形(ほんあみこうさいおしがた)」:光柴の名が載った資料は見つからないが、押形に付いた注記により慶長から寛永の頃の人とわかっている。名物押形が31振りもあり、その上で当時の所持者と寸尺が記されており参考になる。
  • 「本阿弥光済押形(ほんあみこうさいおしがた)」:古刀の中心の図、380を集めたもの。安栄3年(1774年)の写本が残る。ただし本阿弥宗在入道光済の名は資料には見当たらない。