星切

星切の太刀(ほしきりのたち)  

来歴  

  • もとは曾我兄弟のあだ討ちで有名な曾我五郎時致所持と伝わる。
  • 戦国時代に信長が所持し、信長はこれに金銀を散りばめた太刀拵えをつけていた。
  • 天正3年(1575年)11月28日信長42歳の時、嫡嗣信忠に織田家家督を譲った際に、この「星切の太刀」、茶道具、三国の重宝を美濃・尾張の二国と共に譲ったという。

    十一月廿八日、信長御家督秋田城介(織田信忠)へ渡進ぜらる。誠に信長公三十年御粉骨を尽させられ、御屋形作り金銀を鏤め、星切の御太刀、是は曾我五郎所持の太刀なり。其外集置かせられたる御道具、三国の重宝、員を尽し、尾州濃州共に御与奪なされ、信長公御茶の湯道具ばかり召置かせられ、佐久間右衛門私宅へ御座を移させられ、御父子共御果報大慶珍重々々。

  • この天正3年というのは、4月に長篠の戦いで武田勝頼を破っており、また11月には信長は権大納言、さらに右近衛大将を兼任した年で、これにより足利義昭(当時、左近衛中将・従三位権大納言)の官位を上回り、以後信長は「上様」と呼ばれるようになる。
  • 家督を譲ったおよそ1ヶ月後の翌天正4年(1576年)1月には安土城の築城を開始し、4月に移り住んでいる。
  • 天正10年(1582年)6月本能寺の変が起きた際、信忠は妙覚寺に宿泊していたが父信長と合流すべく出撃の準備を整えていた。そこに村井貞勝父子らが駆けつけ、本能寺が既におちた旨を伝え、防御能力に優れた二条御新造(旧二条城)へ移ることを進言する。
  • 信忠は二条御新造に退いて明智勢と戦うが、力尽き横死する。「星切太刀」もその時に焼失した。
    二条御新造とは、「二条殿(押小路烏丸殿)」と呼ばれていた二条家の屋敷跡に信長が築いた旧二条城のことで、現在の烏丸御池駅の北西の地(京都国際マンガミュージアムのある一帯)にあったとされる。当時妙覚寺はこの二条御新造の西隣にあった。なお現在二条城(元離宮二条城)と呼ばれる建物は、関ヶ原勝利後の家康が、これより西の大宮押小路に築いたものである。