早川正宗

早川正宗(はやかわまさむね)  


象嵌銘正宗
二尺三寸七分半

  • 享保名物帳所載

    早川正宗 象嵌銘長二尺三寸七分半 代五千貫 御物
    浅野紀伊守殿内早川伝右衛門と云者所持にて国許より江戸へ払に来る、鞘も無之反故にて包み右の通りにて役人光甫へ頼み、是は正宗にて御座候御家へ被召上候様に申す、右の作に究る寛政六年十一月御野剣に御拵其節仙洞へ小池正宗御白鞘にて進献になる。

  • 表裏樋、正宗と金象嵌。

由来  

  • 浅野紀伊守家臣の早川伝右衛門の所持にちなむ。

来歴  

  • 浅野家臣早川某が江戸で売りに出し、鞘もなく反故紙にくるんだような状態であった。
  • 浅野家の腰物係が本阿弥光甫に見てもらった所、これは相州正宗であるというこので、五千貫の代付けをした。
  • それを将軍家で買い上げ、紀州徳川家に与えた。
  • 紀州家では、宝永2年(1705年)11月28日、3代徳川綱教の遺物としてこれを将軍家に献上した。
  • 幕府ではこれに毛抜形の太刀拵をつけ、寛政6年(1794年)に朝廷へ進献するために腰物係から目付役の成瀬吉右衛門へ渡した。それを宿急ぎで京都へ送ったが、書類に「早川正宗」と書かなかった。
  • 腰物係の藤右衛門が上司の近藤吉左衛門に「何のための御進献上」と書くべきか相談した所、進献の趣旨はややこしいようだからただ「進献」とだけ書くよう指示されたという。
  • 実際に朝廷に献上されたのは翌7年(1795年)9月5日のことだった。そのことを何と書き留めたか書役の田中吉蔵に尋ねた所、ただ「御野剣」とだけ書き、「早川正宗」とは書かなかったという。
    献上した趣旨は、家斉が一橋家から将軍家に入って相続した時ともいうが、それは天明6年(1786年)なので異なる。また欽子内親王が光格天皇の皇后になったお祝いともいうがそれは寛政6年(1794年)なのでこれも異なる。いわゆる寛政5年(1793年)「尊号一件」事件の際、ご機嫌取りで送ったものだが、適当な口実が見当たらなかったため実際の献上が寛政7年(1795年)に延びたのではないかとされる。
  • 享保名物帳の最後に書かれる「其節仙洞へ小池正宗」というのは別の正宗のことで、本刀「早川正宗」と同時に仙洞(京都御所)へ献上したためその旨書いている。「寛政6年」があっていれば後桜町上皇となる。
  • 小池正宗」は明治まで皇室に伝わったが、「早川正宗」については孝明天皇の時、嘉永7年(1854年)4月6日の京都の大火で焼けてしまったために、焼身は広幡基豊に下賜された。
  • 広幡基豊は当時権大納言で、仁孝天皇の猶子伏見宮貞教親王家の別当をしており、愛刀家であったため孝明天皇より拝領したという。