日本鍛冶宗匠

日本鍛冶宗匠(にっぽんかじそうしょう)  

  • 三品派の金道家二代目が許された称号
    三代目までは「日本鍛冶匠」と名乗っており、三代目金道の享保6年ごろから「日本鍛冶匠」に変わった。吉宗の命であるとされる。
  • 刀匠の受領手続きの一切の窓口となり、受領名を希望する刀工は全て金道家の弟子となり、金道家を経由して朝廷に上奏しなければ官職が貰えないという特別な権限を朝廷より授けられた。
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備前信房  

  • 後鳥羽院より日本の鍛冶宗匠に任じられた。
  • ただし実質的には、御番鍛冶の取り締まり役程度とされる。


三品派  

  • 志津三郎兼氏九世の孫と称する関の兼道が京都西洞院夷川に移住し、三品一派を興した。
  • その長男「伊賀守金道」、次男「和泉守藤原金道」、三男「丹波守吉道」、四男「越中守正俊」の親子は京五鍛冶と称され、埋忠明寿、堀川国広の一門と並び江戸時代を通じて栄えた。

和泉守藤原金道  

  • 初代金道は、金道系図に和泉守受領とある。しかし和泉守を受領後僅か五年で没したためか、近年まで和泉守受領銘の現存品が確認されず越後守の誤りではないかとの指摘もあった。
  • 「和泉守来金道」「藤原来金道」

初代伊賀守金道  

  • 関兼道の子
  • 文禄3年(1594年)伊賀守を受領して禁裏御用を賜る。
  • 寛永6年(1629年)12月11日没
  • 任じられた理由には数説ある
    • 家康からの千腰注文をさばいた功によるもの
      • 慶長19年の春、太刀千腰の注文を受けた際に、在京の鍛冶を金道の支配下に入れる事を条件に注文を引き受けたという。
      • 金道は、その功をもって家康の取次により「日本鍛冶宗匠」となり、刀工たちの朝廷への受領斡旋を一手に引き受けることとなった。

        [下知状]而今已後、鍛冶職分者、可為配下

        [往来証]国々鍛冶職之者、為調通行之節、海陸之関所、一言之断ニ而通行可致事

  • 正親町天皇の太刀を調達した功によるもの
  • 昼御座の御剣のお手入れをした功によるもの
  • 全国の刀工の受領斡旋をしたいたことによるもの
  • 時代が下ると金道家は受領銘の斡旋を生業とするに至っている。

二代伊賀守藤原金道  

  • 初代金道の長男で三品勘兵衛と称す
  • 世人は丸惣、丸惣伊賀、ツンボ伊賀と呼んだという。
  • 初代の時に正親町天皇の御剣を鍛えた功により、菊紋を許されるが、実際に見るのは二代からである
  • 寛永14年(1637年)9月16日に伊賀守を受領した。
  • 「日本鍛冶惣匠」
  • 4代将軍家綱の「差し習い」のさいの大小も鍛刀している
  • 延宝8年(1680年)10月21日卒
退雷(たいらい)
雷を退けたとする。「寛文十一辛亥歳七月六日未上刻 雷落自抜出 仍退雷」と金象嵌。

三代金道  

  • 三品勘兵衛襲名
  • 貞享元年(1684年)6月28日伊賀守受領
  • 享保6年ごろから惣匠ではなく「日本鍛冶宗匠」と切り始める。
  • 享保7年(1722年)9月、江戸城において、「若狭正宗」、「会津正宗」、「武蔵正宗」、「観世正宗」、手掻包永などを拝見した後、浜御殿において鍛刀の光栄に浴する
  • 翌年(1723年)7月、京都町奉行より屋敷替えの許可があり、初代以来の西洞院竹屋町下る570から、松原通河原町西へ入る北側(現下京区松原電車停留所付近)に移っている。
  • 享保11年(1726年)6月28日没

四代金道  

  • 三品勘兵衛襲名
  • 享保16年(1731年)3月12日伊賀守受領
  • 酒豪で借金を造った。財産を整理してもなお百五十両不足したため、全国の門人に割り当てて返済した。
  • 宝暦6年(1756年)9月10日卒、62歳

五代金道  

  • 通称右膳
  • 宝暦元年(1751年)伊賀守受領 コ※宝暦13年(1763年)10月14日とも
  • 天明1月の大火で金道家も全焼。全国の門弟から寄付を集める。
  • 五代・六代は刀銘に「雷除」の二字を切り添える
  • 寛政4年(1792年)2月14日卒、65歳

六代金道  

  • 勘兵衛
  • 寛政11年(1799年)10月26日伊賀守受領
  • 手柄山正繁の弟、繁広を養子にするが、文化3年(1806年)に離縁する
  • 門人の日向住鬼政を養子にしようとするが、嫌われて逃げ帰ってしまう。そこで因州住笹尾歳歳友鶴を養子にする

七代  

  • 友鶴か
  • 文政8年(1825年)2月伊賀守受領

八代  

  • 五左衛門
  • 文政10年(1827年)12月伊賀守受領
  • 晩年誓願寺に入り出家、鉄扇と号す
  • 安政3年(1856年)上野渋川上郷で客死

九代  

  • 8代の弟
  • 天保6年(1835年)10月に伊賀守受領
  • 白銀師であったため、刀の注文は南海太郎朝尊に代作させた

10代  

  • 9代の甥。伏見宮家司、三木大蔵権少輔兼若狭守善継の次男
  • 天保15年(1844年)7月伊賀守受領
  • 彫金が好きで、後藤家の門に入り、金工銘を守一、号を虎洞館と称した
  • 文久3年(1863年)、日本鍛冶宗匠を従弟の近江守金行に譲った

11代  

  • 初名金行
  • 文久3年(1863年)5月に二条家の家臣となり、同年8月日本鍛冶宗匠の宣下を受ける
  • 同月29日従六位上、翌10月には近江守任じられる
  • 元治元年(1864年)の蛤御門の変で三品家は類焼の厄を被る。全国の門弟に「御鍛冶所就御再興廻達書」を送り、再建費用の寄付を求めている。

 

  • 初代伊賀守金道の弟の系統

初代  

  • 文禄4年(1595年)12月和泉守受領
  • 兄と同じく西洞院に住す
  • 「和泉守来金道」「藤原来金道」
  • 慶長5年(1600年)死去

2代金道  

  • 元和2年(1616年)越後守受領
  • 大法師、寛永元年法橋
  • 「大法師法橋来栄泉」
  • 荒木又右衛門が仇討ちの際に、折れた刀は2代の作という
  • 万治3年(1660年)死去

3代金道  

  • 正保3年(1646年)和泉守受領
  • 入道して栄泉
  • 父の「大法師法橋」を切っていた
  • 「和泉守来金道」
  • 寛文12年(1672年)5月正式に法橋も叙せられる
  • 元禄3年(1690年)死去

4代金道  

  • 元禄年間に和泉守受領
  • 元禄15年(1702年)12月死去

5代金道  

  • 実は近江守久道の長男
  • 宝永7年(1710年)幕命を受けm二条城において正徳元年(1711年)の朝鮮通信使へ贈る太刀と長刀を鍛える。
  • 享保6年(1721年)にも二条城内で鍛刀する
  • それらの功により、松原通寺町東へ入るに屋敷を賜わる
  • 翌8年3月にも江戸へ召し出され、太刀を作る
  • 享保15年(1730年)にも幕命により一刀を鍛え献上する

丹波守吉道  

  • 二代伊賀守藤原金道の弟。
  • 「丹波守吉道」「丹波守藤原吉道」
  • 一尺前後の脇差が多い。
銘「丹波守吉道」長二尺三寸六分、反り三分三厘。鞘書き「慶長従年中、頓宮七衛門盛永常帯之其後為棒鞘代々是持傳宝暦二壬申秋八月硼鞘改置者也、宝暦三癸酉歳九月日備前国長船住横山七兵衛寿光表裏元二凌内長短連樋彫」
  • 後代の吉道には、「富士見西行」と呼ばれる富嶽になぞらえた山形の焼刃の下に、雲と見える簾刃を流し、その中に一点旅ゆく西行法師を見せる焼玉をつける技工に富んだものも現れる。

大坂丹波  

  • 初代丹波守吉道の次男が丹波守を受領した後に大坂に移り、大坂丹波と呼ぶ。
  • 大坂丹波初代の次男に大和守吉道があり、二代は三品四郎兵衛を称し播州姫路にも住した。

越中守正俊  

  • 二代伊賀守藤原金道の弟。
  • 兄弟の内、技量が抜きん出ている。
  • 慶長6・7年ごろからの銘がある。
  • 銘は「越中守正俊」「藤原正俊」「平安城住正俊」など
銘「越中守正俊」長二尺二寸六分、反り三分。表に剣巻竜、裏に護摩箸。
銘「越中守正俊」長二尺六寸三分五厘、反り六分五厘。地蔵鋩子。
銘「越中守正俊」長二尺二寸九分、反り四分。表裏に角留の二本樋。重要美術品。林田等氏旧蔵。

近江守久道  

  • 初代伊賀守金道の末子、三代伊賀守金道の弟など。堀家出身で江州野洲郡野村の旧家堀勘左衛門の弟六郎兵衛が刀工志願であったため連れ帰って弟子にした。寛文元年(1661年)に近江大掾受領。翌2年に近江守。
  • 二代:金道入道栄泉の次男金四郎久次を養子にしたもの。正徳2年(1712年)近江守受領。

宣旨  

  菅 原 包 則
従二位行権中納言兼右衛門督藤原長順
宣奉 勅件人宣令任
能登守者
慶應三年三月廿三日大外記助教中原師身
堅壹尺弐寸三分
 横壹尺八寸九分
 白キ大たかたん紙に認め有之
右能登守包則と同時に受領之面々
一和泉守兼定 會津かぢ
一越前守直正 相馬かぢ
一筑後守廣光 柳川かぢ
一長門守兼吉毛利氏 京都かぢ
一大隅守定次伊幸氏 京都かぢ
一駿河守正直田郷氏 二本松かぢ
一摂津守正吉 京都かぢ
一大和守元興角氏 會津かぢ
一大和守行安 薩摩かぢ
一筑前守信秀栗原氏 江戸かぢ
 合十一名