新身来国光

新身来国光(あらみらいくにみつ)  

短刀
銘 来国光
名物 新身来国光
一尺七寸(長32.2cm 内反 元幅3.2cm 茎長12.4cm)
重要文化財
個人所蔵

  • 来國光作の平造短刀の中で最も大振りのもの。
  • 享保名物帳所載

    新身 在銘長一尺七分 代金二百枚 御物
    恰好丈夫故に名付、表裏並影樋、三千貫にて保科肥後守殿遺物として上る、貞享二に代上る

    詳註刀剣名物帳注記:一本に来国俊、一本に来国光とあり。肥後守殿の下「お求め」の三字を加へて見るべし、遺物として上るは献上なり、代金の下る筈なし故に脱字ありと知るべし、保科正之は二代秀吉公(秀忠公の誤り)の庶子寛文十二年十二月十八日卒去六十四歳。

  • 平造、三つ棟、内反、身幅広く、寸延びの造込み。帽子僅かに乱込み、先小丸やや長く返る。
  • 彫物表裏刀樋に添樋を掻流す。
  • なかご生ぶ、先栗尻、鑢目勝手下がり、目釘孔2個。
  • なかご、目釘孔下中央に「来国光」の三字銘がある。

由来  

  • 享保名物帳に「恰好丈夫故に名付」と書かれる。
  • 身幅が広く重ねも厚いために名づけたという。

来歴  

  • 会津藩主保科正之が三千貫で買い求めた。
    慶長16年(1611年)2代将軍徳川秀忠の四男(庶子)として生まれる。母は諸説あり。生母は武田信玄の次女である見性院に預けられ、養育された。元和3年(1617年)見性院の縁で旧武田氏家臣の信濃高遠藩主保科正光が預かり、正光の子として養育される。寛永8年(1631年)、正光の跡を継ぎ高遠藩3万石の藩主となり、正四位下左近衛中将兼肥後守に叙任。3代将軍家光はこの謹直で有能な異母弟をことのほか可愛がり、寛永13年(1636年)には出羽山形藩20万石、寛永20年(1643年)には陸奥会津藩23万石へと引き立てている(正之は養育してくれた保科家への恩義を忘れることなく終生保科姓で通した。松平姓と葵の紋が使用され親藩に列したのは3代正容の時)。のち幕末まで会津藩は存続した。寛文9年(1669年)に隠居、寛文12年(1672年)三田の藩邸で死去。
  • のち将軍家に献上された。寛文9年(1669年)に隠居した際に来国光の短刀を献上しており、これが新身来国光と思われる。
  • 実記も寛政重修諸家譜でも「来国光」のみの記載。
  • 将軍家に入ってから200枚の代付け。
  • その後昭和まで徳川宗家に伝来した。
  • 昭和14年(1939年)2月22日に重要美術品指定。徳川家正公爵所持。
  • 昭和34年(1959年)6月27日に重要文化財指定。
  • 現在は個人所蔵。