抜丸

抜丸(ぬけまる)  

平家相伝の太刀
元は「木枯」と号した

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  • 元は「木枯」と号されていた。
    一説に嵯峨帝の勅により打ったものともいう。となると「木枯」の逸話と矛盾する。
  • 伯耆の刀工大原真守の作。真守は童子切で高名な大原安綱の子という。
  • 作は、伯耆大原実守、伯耆武保、古備前助包(抜き打ち丸との混同か)など諸説ある。
    日乗作に「抜丸」があり、こちらは刃長二尺七寸。銘は佩表の目釘孔の上に棟によって切ってあったという。

由来  

  • 刑部卿平忠盛(平清盛の父)が池殿(池の禅尼の館)にて昼寝をしていた時、池から大蛇が上って来て平忠盛を飲み込まんとしたという。
  • すると、枕辺に建て掛けたるこの太刀木枯)が自らするりと抜けて、大蛇に切り掛かったため蛇は恐れて池に沈み、太刀は元の鞘に収まった。また蛇が出て来て飲み込まんとするが、抜け出した太刀がまた大蛇を追って行き、池のほとりに立ったという。
  • 忠盛がこの様子を見ていて、「抜丸」と名付けたという。

来歴  

  • もとは伊勢の鈴鹿山に暮らす猟師が授かったという。

平忠盛  

  • ある逸事から「木枯」と名付けたという話を刑部卿平忠盛(平清盛の父)が聞きつけ、年貢三千石にて替て代えて召し上げた。「木枯(こがらす)」の由来は、木枯を参照のこと。
    伊勢守であった刑部卿平忠盛がこの噂を聞きつけ、男から買い取ったという。

平頼盛  

  • 平忠盛の五男で、藤原宗子(池の禅尼)の子である三河守平頼盛が譲り受ける。
    平頼盛は平清盛の異母兄で、六波羅館の池殿(いけどの)を生母から引き継いだため、池殿または池大納言と呼ばれた。清盛の男兄弟の中で壇ノ浦の戦い後も唯一生き残った人物である。
  • 平治の乱において平頼盛はこの「抜丸」を振るって活躍したと言う。乱後、頼盛は尾張守に叙されている。
  • 平頼盛は清盛の15歳年長の異母兄にあたるが、逆に重用されずに警戒されることが多かった。その為か、都落ちをする平宗盛(清盛の子)らとは別行動を取ったという。その一因に、この「抜丸」の相伝をめぐっての宗盛との確執があったとする説もある。
    一説に平重盛に譲られたともいう。
  • その後、頼盛は鎌倉の源頼朝に接近し、一時鎌倉に亡命をしている。寿永3年(1184年)になると義仲が滅ぼされ、一ノ谷の戦いで平氏も屋島に撤退したことにより京都は頼朝の勢力下となる。頼朝の運動もあり、頼盛は権大納言に還任している。
  • 翌元暦2年(1185年)3月、壇ノ浦の戦いで平氏一門は滅亡すると、それからほどなくして二ヵ月後に東大寺で出家し法名重蓮と号した。
  • 文治2年(1186年)6月54歳で没。
  • 「抜丸」の行方は不明だが、おそらく鎌倉に伝わったと思われる。

足利将軍家  

  • 「抜丸」はのち足利将軍家の重宝となっている。
  • 永享4年(1432年)5月7日、御会所の塗籠のうちにおいていたものが紛失していることが判明した。京都中の土倉(質屋)を探させたところ、9日に発見されたという。
  • その後は行方不明。

六波羅館(ろくはらやかた)  

  • 六波羅館は、清盛の祖父にあたる平正盛が現在の阿弥陀堂(現在の建仁寺常光院)を建立したのに始まる。
  • その後、伊勢平氏の京都での根拠地となり、最盛期には北側が平安京の五条大路を東に延長した通り(現在の松原通)、東側が車大路、南側が平安京の六条大路を東に延長した通りであったと考えられている。南北およそ500メートル、東西およそ600メートルの規模を誇った。
  • 周囲は塀を巡らせ、内部には伊勢平氏の惣領家の邸宅「泉殿(いずみどの)」を中心として池殿、小松殿(平重盛)、門脇殿(平教盛)など「屋敷三千二百余宇」が立ち並び、伊勢平氏の一族郎党が起居していたとされる。

泉殿(いずみどの)  

  • 惣領家の邸宅を「泉殿」と呼んだ。
  • 泉殿の由来は、寝殿東の郭に泉が湧いていたためという。
  • 泉殿は氏長者の邸宅と位置づけられており、1169年に平清盛が福原に移るとこの邸宅は後継者の平重盛に譲られている。
  • 現京都市東山区三盛町

池殿(いけどの)  

  • 泉殿の南側に池殿(いけどの)があった。
  • 池殿は、仁平3年(1153年)の忠盛の死後、その正室であった藤原宗子が暮らす。このため宗子は「池の禅尼」と呼ばれた。池の禅尼は、待賢門院近臣家の出身で美福門院ともつながりがあったため、「夫ノ忠盛ヲモモタヘタル者」とも呼ばれたという。平治元年(1159年)の平治の乱では、池の禅尼は敗れた源義朝の嫡男であった13歳の源頼朝の助命嘆願をしている。
  • 頼朝はこの時の恩を忘れず、池の禅尼の子である平頼盛とその一族を優遇し、平姓池氏は鎌倉時代においても朝廷堂上人および幕府御家人として存続した。
  • 禅尼の死後、池殿はその子である平頼盛が住居とし、このため頼盛は「池殿」または「池大納言」と呼ばれた。
  • 現京都市東山区池殿町

六波羅探題  

  • 平氏が壇ノ浦で滅亡し、さらに承久3年(1221年)の承久の乱ののち、これまで鎌倉幕府の支配が及ばなかった西国にも地頭を設置することとなった。
  • そこで鎌倉幕府はこの六波羅の地を押さえ、主に朝廷方の動きを常に監視し統御することを目的とし、屋敷を改築して役所とした。
  • 北条泰時・北条時房の二人が六波羅の北と南に駐留し、西国の御家人を組織し直して京の警備・朝廷の監視・軍事行動などを行わせた。これが六波羅探題の始まりである。
  • 探題は執権・連署に次ぐ重職とされ、伝統的に北条氏から北方・南方の各一名が選ばれて政務に当たった。探題には北条氏一族でも将来有望な若い人材が選ばれる事が多く、鎌倉に帰還後には執権・連署にまで昇進する者が多くいた。北方は初代泰時から仲時まで16代、南方は初代時房から時益まで13代を数える。

その後  

  • 元弘3年/正慶2年(1333年)に後醍醐天皇の討幕運動から元弘の乱が起こると、令旨に応じた足利尊氏(当時は高氏)や佐々木道誉、赤松則村(円心)、石井末忠らが京を攻めた。これによって当時の探題であった北条仲時らは京を追われ、六波羅探題は消滅した。