成瀬隼人正

成瀬隼人正家(なるせはやとのしょうけ)  

大名
犬山藩藩主家
成瀬隼人正家は、犬山藩3万5千石の藩主で尾張藩の附家老の家柄

成瀬正成──成瀬正虎──成瀬正親──成瀬正幸
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初代:隼人正正成  

  • 初代は三河成瀬氏の成瀬正成。
    正成の父は成瀬正一。正一は徳川氏を出奔して武田氏に仕え、第四次川中島の戦いでは、石黒五郎兵衛と共に諸角虎定の首級を取り返し、武田信玄より黒駒の地を与えられる。後北条氏に仕えたのち、徳川氏に復帰。家康の旗本となり、長篠の戦いや関ヶ原の戦いに参陣し、最後は伏見城留守居役に任ぜられた。
  • 天正13年(1585年)には、根来衆50名を与えられ、17歳にして一軍の将となる。この鉄砲隊が後に根来組といわれる百人組の部隊である。

    この日根來右京進盛重和泉國の代官を命ぜらる。こは其はじめ紀伊國根來寺の僧にて。成眞院に住し大納言坊と號す。さきに豐臣太閤根來寺を燒亡されし後。この僧一山の法師等をひきゐて濱松にいたり拜謁せしかば。還俗せしめられ。成瀬吉右衞門正一(正成父)に屬せらる。是今の世にいふ根來同心の濫觴なり。元和元年四月廿七日より愛染院長算と同じく。根來同心五十人を引つれ伏見城を守りしに。長算はほどなく死しければ。盛重一人にてこれを所屬とし。守衞したり。しかるに今度五十人の者等は。江戸に召て成瀬伊豆守之成(正成次男)が所屬とせらるゝが故に。盛重はかく命ぜられしとぞ。

  • 小牧・長久手の戦いでも功を上げている。

    長久手の戰に高名し。備前兼光の御脇差をたまはり。

    これが「明智兼光」だと思われる。

  • 朝鮮出兵を控えての大坂での馬揃えでは、豊臣秀吉の目に留まり、5万石で召抱える旨を言い渡されたが、二君に仕えずとして涙を流し、「どうしてもというのであれば腹を切る」と固辞したという逸話が残る。
  • 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで功を上げて堺奉行となり、その後家康の老中(家老)となって本多正純、安藤直次らと共に政務の中枢を担い、江戸幕府初期の幕政に参与した。
  • 慶長12年(1607年)、従五位下に叙せられ、隼人正を称す。

尾張藩附家老  

  • 慶長12年(1607年)に徳川義直が尾張藩主に任じられた際には平岩親吉が附家老として尾張に移り、藩政を執行したが、平岩は慶長16年(1611年)に嗣子なく死去する。成瀬正成は家康から乞われてこの後を受け、犬山藩主、尾張徳川藩の附家老となった。

    成瀬隼人正正成には尾州犬山城をたまはり。 故平岩主計頭親吉が家士悉く所屬とせらる。

  • この時家康は、成瀬正成に対して「もし義直に逆心があった時はその旨を自分に知らせるように」と言い聞かせ、それを遵守するための起請文を書かせようとした。しかし成瀬正成は、自分を尾張家の家老に据えるからには、自分の主は義直一人である。もし義直が謀反を起こしたら、自分も家来としてそれに従う、それゆえこのような起請文を書くことは出来ない、と家康の命令を断ったという。
  • 寛永元年には大病を患っている。

    成瀬隼人正正成大病により。土井大炊頭利勝御使してとはせらる。

  • 寛永2年(1625年)59歳で死去。死に臨んで「大御所(家康)の眠る日光に行く」と言い出して聞かず、やむなく家臣達が籠を担いで日光に向かっている振りをしたという逸話が残る。

    十七日尾張中納言義直卿の老臣成瀬隼人正正成卒去す。特旨によりて江戸中音樂を停廢すること三日なり。

系譜  

二代:隼人正正虎  

  • 寛永2年(1625年)4月29日襲封の挨拶。

    尾の老成瀬半左衞門正虎時服金馬代奉りて。襲封を謝し奉り。父隼人正正域が遺物貞宗の刀を献ず。

  • 慶安3年(1650年)7月尾張光友の襲封の挨拶の際

    尾張宰相光友卿襲封の謝恩とて拜謁せられ。(略)隼人正正虎はじめ。家司等みな拜し奉る。隼人正正虎はこと更に召て。馬を好むよし聞召たりとて。岩沼總五郎と名付られたる青馬を給はりしとぞ。

三代:隼人正正親  

  • 2代藩主尾張光友から、成瀬正親(成瀬正成の孫、成瀬正幸の父)と竹腰正晴(おなじく尾張藩の附家老、美濃国今尾藩主)の両附家老は尾張家では格別であるため、重要事項以外の雑務を免じ、さらに藩主の在府時は書状への加判も必要ないとされている。

四代:隼人正正幸  

  • 元禄8年(1695年)5月朔日、初御目見得

    尾邸の老成瀬隼人正正親が子小吉正幸初見し奉る。

  • 元禄16年(1703年)12月28日襲封の挨拶。

    尾の老成瀬因幡守正幸より。亡父隼人正正親が遺物備前國政充の刀を獻じ。

  • 尾張徳川家家に伝来した名物後藤藤四郎」に逸話が残る。
  • 元禄の末ごろに老中から、尾張藩付家老である成瀬隼人正正幸に対して、次の尾張藩主出府の際には、木曽の御料林を幕府に献上し、かつ江戸出府の手土産に「後藤藤四郎」を献上するようとの内示があった。これに対して成瀬は、千代姫様の思し召しも測りがたい上、そんなことであれば藩主も出府しますまいと撥ね付けた。これを聞いた正幸の父成瀬正親は、わしもこれで安心して冥土にいけると喜んだという。
  • 雪村(せっそん)の鍾馗磨剣の図でも同様の話が残る。

    或時奧醫等御前にありて。何くれの物語せし中に。誰にか有けむ。成瀬隼人正正幸が家に。雪村の鍾馗磨劔の圖を藏したり。ことさらにうるはしく見えたり。これを御覽に備へ。御心に應じなば獻りたしといひたるよし申ければ。故もなく人の珍寳を取事。我が好まざる事なりと宣ひしかば。大に畏服して退きぬ。其後程へて。何となく。成瀬が家の雪村の畫。御覽あるべしと仰下されければ。進覽せしに御けしきにかなひ。御みづから臨摸し給ひ。原圖は永くその家に秘藏すべしとて返し下されぬ。

    奥医師らが8代将軍吉宗の御前で話していたとき、誰かが成瀬の家に雪村の見事な絵があると申し上げたのを機に、さっそく台覧に供することとなった。正幸が、もしお気に召されたのでしたら献上いたしますと申し上げるが、吉宗は故もなく人の宝物を取り上げるのは好まないとして返している。しかし程なくして再び見たいとの仰せがあり、その時自ら模写した上で、原本は成瀬の家で秘蔵すべしと戻している。

五代:隼人正正泰  

  • 初御目見得

    尾の老成瀬隼人正正幸が子半左衞門正泰初見し奉る。

  • 享保17年(1732年)12月

    尾藩の老二人卿のこひにより叙爵をゆるさる。成瀬半左衞門正泰は隼人正と稱す。

九代:隼人正正肥  

  • 犬山藩の第9代(最後)の藩主。
  • 丹波国篠山藩主・青山忠良の三男として生まれる。正室は8代当主成瀬正住の娘。
  • 華族制度発足後は男爵となり、1891年4月23日には子爵に陞爵した。

犬山城  

  • 成瀬氏の居城犬山城は、昭和10年(1935年)に旧国宝指定、昭和27年(1952年)には新国宝に指定され、天守が国宝指定された5城のうちの一つとなっている。
    他は姫路城、松本城、彦根城、松江城(2015年指定)。

刀剣  

  • 成瀬家に関係する刀剣。
七つ星正宗
成瀬正成が尾張義直に献上したと思われるのが「七つ星正宗」(火焔正宗とも。在銘の正宗脇差)である。「尾張家老成瀬隼人正から献上」とされ、時期的には初代の成瀬正成の可能性が高い。のち津山藩松平家伝来。
成瀬行平
享保名物追加の部。豊後行平の脇差。尾張徳川家家老で犬山城主の成瀬家に伝来。刃長九寸二分五厘。
小玉正宗
尾張徳川家に伝来した短刀で、「是ハ右兵衛督様御拝領 成瀬隼人正より請取」と書かれている。右兵衛督様とは初代尾張義直、成瀬隼人正は成瀬正成と思われる。
左文字短刀
銘「左安吉作/正平十二年二月日」成瀬正雄子爵所持。光悦折紙が附く。財団法人犬山城白帝文庫所蔵。二代目の成瀬正虎は、寛永10年(1632年)5月に尾張二代藩主の徳川光友が徳川家光にお目見えの時に付き添いしており、その際に家光から左文字の刀を拝領したとする。その左文字と思われる。

廿三日尾張大納言義直卿の長子五郎八のかた初見の禮とられ。銀三百枚。時服廿。太刀目録獻ぜらる。御盃賜はり。正宗の御脇差さづけらる。家司成瀬隼人正正虎も時服十獻じ拜し奉り。これも御手づから左文字の御刀を賜ふ。

ただし正虎は翌6月に暇乞いの際にも左文字を賜っているがいずれのものかはわからない。

七日(略)隼人正正虎いとま給はり左文字の御刀を下さる。

明智兼光
脇差 銘本明備州長船兼光。小牧長久手の初陣の折に徳川家康公より褒美として拝領。成瀬家では、「明智兼光」の名で伝来。由来は銘にある「日向守」による。
平安城長吉の作。

関連項目