慶長伏見地震

慶長伏見地震(けいちょうふしみじしん)  

  • 慶長伏見地震は、文禄5年(1596年)閏7月13日子の刻(23時~1時)に現在の京都・伏見付近で発生した、マグニチュード(M)7.0 - 8.0程度と推定される大地震である。
  • 慶長伏見大地震とも呼称され、京都では伏見城(指月伏見城)天守を始めとして、東寺、天龍寺、二尊院、大覚寺等が倒壊し、死者は1,000人を超えた。
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概要  

  • イエズス会の宣教師ジアン・クラッセ(Jean Crasset)の「日本西教史」に詳しく描かれている。

    災異の數多ある中に尤も恐る可き害を為せしは地震なり。同年の八月三十日大阪に於ては午後八時より始まり、九月四日の夜半一層激しく、事急にして人々家を出る暇なく、瓦の下に埋まれし者多し。
    (日本西教史)

    「日本西教史」での日付はグレゴリオ暦

地震と伏見城  

予兆(降灰・白毛)  

  • 地震の数日前、京大阪では地震の予兆とされる現象が観測されている。

    此大造営の間に天變地災屡々起り、第一は千五百九十六年七月二十日京都伏見の邊、灰の降ること半日、樹木人家を覆へし、又堺大阪は赤色の砂降り、幾程もなく白毛を降し、其形老人の髪の如く、只其異なる所は髪より軟らかにして火中に投ずるとき悪臭なし、南方の諸國は此物の降らざる處なかりしとぞ。
    同年八月中旬其形怒る可き彗星見はれ、西より東に亙り十五日の間黒気其周園に懸けり。支那人は殊に天變を信ずる者なれば、此星變を見てウアザ々々と云へり。是は憂ふ可き事恐る可き事と云ふ意なり。此の如き人情は萬国の人民自然と同一にして、之れを事に微するに符号するものなり。
    (日本西教史)

    「日本西教史」の日付はグレゴリオ暦。「義演准后日記」によれば、降灰が旧暦6月27日正午から2日間で、「舜旧記」や「孝亮宿禰日次記」にも同様の記述がある。またこの時、「白毛」が降った地域もあるという。この白毛は現在では「火山毛(ペレーの毛)」と呼ばれる現象とされる。さらに降灰の2日後となる6月29日京都の北西の空に彗星が現れ、2週間ほど見えていたという。当時の人々にとって彗星は凶事の兆しであり、人民は恐れたという。

指月伏見城  

  • この慶長伏見地震により、秀吉が最初に築いた「指月(しづき)伏見城」でも女﨟73名、中居500名が死亡した。

    太閤殿下の宮殿(指月伏見城のこと)は大厦高楼盡く壊れ、彼の千畳座敷竝に城楼二箇所倒れたり。此楼は七八層にして各譙樓あり、近郷を眺望す可く、一層毎に其内を美麗に金銀を以て飾り、(略)此外會同館の前へ大石の垣を作られしが、是も地震のために崩れたり。
    地震は半時間許にして止み、死せる者六百餘人、諸所の佛堂概ね頽破し、佛僧も佛像も共に瓦礫の下に敷かる。此地震の起るとき大地鳴動し、恰も大海の□り、巨濤の岸に觸れて崩るゝが如くなりし。
    此時美麗なる宮殿倒れて残るものなく、太閤殿下の平生起臥せし室は格別宏大美麗にあらざれども、之も暫く搖動せし後終に破壊し、侍妾七百人其下に厭死したり。殿下は地震の起るや急に幼児を抱き走り出づるに、稍暫くして宮殿は瓦石土木を積重ねたる一堆の山となり、善美を盡せる武具家具財寶に至るまで其下に埋れ、此損失を算すれば三億萬金と云ふ。此言は甚だ信じ難しと雖も、城郭の造営に莫大の金銀を費やせしことは問わずして知る可きなり。此諸造営の外に地理の形勝便宜により山を崩して別に山を築きしもの有り、之も或は潰れ、或は大地の裂けし所へ陥りたり。
    (日本西教史)

    閏七月十四日条 今日夜中、大仏、東寺為見舞発足、仰天不斜、委如右記、帰路ニ伏見へ越了、言語道断次第也
    (文禄大地震記)

    指月伏見城は、現在のJR奈良線桃山駅南方、桃山町立売のあたりにあったとされる。

  • 無事だった秀吉は、城中にわずかに残った台所で一晩を過ごし、翌朝1km北東にある木幡山に仮小屋を造り避難した。

    城中に残りし者は庖厨(台所)のみ、太閤殿下姑く此所に入られしが、平地は地震の為めに裂くる事あれば安心ならずと、黎明の頃或る山上へ避け、小柱を立て、蘆を以て覆ひ、内に溝板を周らし、其面に素朴なる紙を張りし小屋を作らせ、暫く其所に坐臥せられ、玄以法印(前田玄以)其他の諸侯二人の外は謁見を許さざりしとぞ。又殿下山上より我城の荒たる状を望み、斯の如き宏大美麗の造営を為せしを以て、天の悪む所と為りしも亦理ありと云はれけるとぞ。然るに剛気のフアラオン王其言を守らず、地震の後再び十萬の工人を聚め、此山上に於て新に伏見城を築かしめたり
    (日本西教史)

    十四日、伏見山山頂に御縄張被仰付、奉行衆罷越
    (文禄大地震記)

木幡山伏見城  

  • 地震後に築城されたのが、現在の桃山の地(明治天皇陵)にかつて建っていた「木幡山(こはたやま)伏見城」である。
  • 名物燭台切光忠」にまつわる、秀吉が小姓たちに政宗を追いかけさせる逸話は、慶長伏見地震の後、この木幡山伏見城築城時の話である。
  • 「木幡山伏見城」は慶長2年(1597年)に完成し、晩年の秀吉は多くを過ごし翌慶長3年(1598年)8月18日伏見城で没した。

伏見城の戦い  

  • 秀吉亡き後、秀吉の遺言より秀頼は翌慶長4年(1599年)正月に大坂城へ移り、この「木幡山伏見城(以下、伏見城)」には徳川家康が留守居役として入城する。
  • 慶長5年(1600年)6月、徳川家康は会津征伐に乗り出し、その隙に西軍の小早川秀秋・島津義弘連合軍が城代の鳥居元忠が篭っていた伏見城を4万の兵で攻め、同年8月1日炎上、落城した。

家康による再建と将軍宣下  

  • 関が原の戦いの後、家康は慶長6年(1601年)3月に伏見城に入城し、伏見城と二条城の再建を開始する。
  • 慶長8年(1603年)には伏見城で征夷大将軍の宣下を受けている。以後、慶長10年(1605年)には2代将軍秀忠、元和9年(1623年)には3代将軍家光がこの伏見城で将軍宣下を受ける。
  • その後、伏見城天守は二条城に、それ以外の多くの建物は福山城や淀城に吸収され伏見城は廃城となった。
  • のち城跡一帯は開墾され、桃の木が植えられたため「桃山」と呼ばれ、伏見城が通称として桃山城と呼ばれる由来となっている。
    安土桃山時代の桃山もこれに由来する。"安土"とは信長の政庁が置かれた安土町に、"桃山"とは秀吉が政庁を置いた伏見の別名桃山にちなむ。
  • 伏見城跡は伏見奉行所の管理とされ幕末まで立入禁止となっていたらしいが、本丸跡などの主郭部分はのちに明治天皇の陵墓(伏見桃山陵)とされる。


「地震加藤」  

  • 歌舞伎「増補桃山譚」(ももやまものがたり)の通称である。
  • 内容は、伏見大地震の時(真夜中)、石田三成の讒言で秀吉の怒りを買い閉門中の加藤清正が第一番に豊臣秀吉のいる伏見城へ駆けつけ、動けない秀吉をおんぶして脱出させ、閉門を解かれるという話であるが、実話ではないとされる。
    2日後に清正が国元に出した手紙には、自分は伏見の屋敷が完成しておらず(恐らくは大坂の屋敷にいたため)無事であったと書いている。




慶長年間の断続的な地震  

  • 文禄(、、)5年に起きた慶長伏見地震が「慶長地震」と呼ばれているのには理由があり、改元前の1ヶ月を含む慶長年間(1596年-1615年)に日本列島で断続的に複数回大きな地震が起こっているためである。
  1. 慶長伊予地震]1596年9月1日、伊予国をおそった地震。M 7.0、寺社倒壊等。中央構造線沿いと推定される地震。
  2. 慶長豊後地震(大分地震)]1596年9月4日、豊後国をおそった地震。M 7.0~7.8、死者710人。中央構造線と連続している可能性がある別府湾-日出生断層帯で発生した(上記地震との)連動型地震とされる。
  3. 慶長伏見地震]1596年9月5日、近畿地方をおそった地震。M 7.0~7.1、京都や堺で死者合計1,000人以上。伏見城の天守や石垣が損壊、余震が翌年春まで続く。有馬-高槻断層帯、あるいは六甲-淡路島断層帯における地震とされる。上記二つの地震に誘発されて発生した可能性がある。
  • (文禄5年10月27日、「文禄」から「慶長」に改元)
  1. 慶長地震]1605年2月3日、南海トラフ巨大地震の一つとされてきたが、伊豆小笠原海溝付近震源説や遠地津波説など異論もある。M 7.9~8.0。紀伊半島沖と房総沖が連動したとする説もあり、M 8.4~8.5ともされる。津波地震と考えられており、地震動による被害は少なかったが、現在の千葉県から九州に至る広範囲の太平洋岸に津波が襲来し、死者1~2万人を数えた。
  2. 会津地震(慶長会津地震)]1611年9月27日、会津地方をおそった直下型地震。M 6.9。寺社損壊、死者3,700人。
  3. 慶長三陸地震(慶長三陸地震津波)]1611年12月2日に三陸沖を震源として発生した地震でM8.1。従来の定説に疑義があるとされ、千島・色丹沖の震源と連動した大地震・津波だったとする説もある。この大津波による北海道・三陸の死者・被害甚大。
  4. 慶長十九年十月二十五日の地震]1614年11月26日に起こった地震。従来高田領大地震とされたが、会津から松山に至る日本各地に被害記録があり、震源は不明。
  • このうち、前三者(慶長伊予、慶長豊後、慶長伏見)は文禄5年閏7月(新暦9月)に起きており、これらの天変地異を期に、文禄5年10月27日(新暦12月16日)に文禄から慶長に改元されている。
    ただし当時の記録には正確でないものもあり、日付が錯綜しているという。また地震域についても諸説あり不明なものも多い。

    慶長伏見地震では、「一庵正宗」に名前を残す横浜一庵や、加賀爪政尚(扇谷上杉氏の末裔、加々爪氏)が死亡している。


天正地震  

  • 天正地震は、上記「慶長伏見地震」より10年前の天正13年(1586年)11月29日に日本の中部で発生した巨大地震。
  • 日本海の若狭湾から太平洋の三河湾に及ぶ歴史上例のない大地震であり、震源域もマグニチュードもはっきりした定説はない。
  • 『東寺執行日記』、『多聞院日記』など多くの古記録に記載され、『梵舜日記』(別名『舜旧記』『舜舊記』)には約12日間にわたる余震が記録されている。
  • この天正地震は、上記慶長期の群発地震の10年前に起こった地震である。
  • この地震を経験していたため、秀吉は最初「指月伏見城」を築く際に、奉行である前田玄以に「ふしみのふしん(伏見城の普請)、なまつ(なまづ=地震)大事にて候まま」と書き送っている。
  • しかしその築城直後に慶長伏見地震が起き、指月伏見城の天守や石垣は崩壊した。その後に築城されたのが、かつて現在の桃山の地に立っていた「木幡山伏見城」となる。