志田大太刀

Table of Contents

志田大太刀(しだのおおだち)  

大太刀
附 革鐔 一口
銘表 南無正八幡大菩薩 右惠門焏家盛
銘裏 南無淹摩利支天源定重 應永廿二年十二月日
刃長220.4cm(7尺2寸8分5厘)
茎長101.8cm(3尺3寸5分)
総長322.2cm
重要文化財
弥彦神社所蔵(新潟県)

  • 表裏に棒樋。なかごに長銘を切る。
  • 製作年である応永22年は1415年。
  • 越後国古志郡夏戸の城主志田三郎定重(志駄定重)が、備前長船の刀工家盛に鍛えさせ、奉納したもの。
  • 重要文化財の湾刀としては日本最長を誇る。
  • 慶長15年(1610年)幕府の巡見使参拝の折、拝見して将軍家に進達した。将軍秀忠は、無類の宝刀であり参拝者に広く拝見させれば諸災退散の一儀ともなろうと言ったという。この言を体し、以後拝殿に掲げてあったもの。
  • 昭和4年(1929年)4月6日旧国宝重要文化財)指定。

志駄氏  

  • 志田、信田
  • 志駄氏は源為義後裔を称する氏族。為義の三男義広は、若年のころ帯刀先生の職にあり、のち仁平3年(1151年)常陸志駄に住し志駄氏を称する(志田三郎先生)。
    当時志田庄の本所は美福門院、領家は藤原宗子(後の池禅尼)であり、その立荘を斡旋したと思われる常陸介が宗子の息子の平頼盛であったとされるが、その後の平氏政権においても志駄荘にとどまっている。平頼盛は平清盛の異母弟。
  • 頼朝挙兵に際しても合流することなく、その後、頼朝が東国支配を強める過程において対立、寿永2年(1183年)野木宮合戦において敗戦する。木曽義仲に従って戦うが、伊勢国羽取山(鈴鹿市)にて斬首された。
  • 義広の死後、子の義延は丹波上杉氏に見出され臣従する。建長4年(1252年)、上杉氏は宗尊親王の征夷大将軍宣下に伴って東国に下向するが、この時に志駄氏も随従している。
  • さらに天授6年(1380年)上杉房方が越後守護となると、志駄氏はこれに従い越後国古志郡夏戸を与えられたという(詳細は不明だが、応永元年~応永19年ごろまでに夏戸に館を築いたとされる)。この頃の当主が、志田大太刀を奉納した志駄定重であるとされる。
  • 戦国時代の当主が上杉二十五将に数えられる志駄義秀であり、母は直江景綱(上杉家宿老、兼続の先代)の娘。永禄4年(1561年)父義時が川中島の戦いで戦死したために、祖父春義を後見人として2歳で家督を継いだが、その祖父も2年後に没し、その後は母の実家である直江景綱により養育された。
  • 天正6年(1578年)の御館の乱では上杉景勝に味方して戦功を上げている。その後も与板衆筆頭として直江兼続の配下に置かれている。慶長3年(1598年)の会津転封時にも従っており、東禅寺城(現酒田市)将となり5100石を知行している。その後は蟄居と帰参を繰り返すが、政務奉行(国家老)に就任している。寛永9年(1632年)、死去。
  • 家督は次男の義繁が継いだ。また、子の秀富は上泉秀綱の婿養子となって剣豪上泉家を継ぎ、上泉主水秀富を名乗った。


三家正吉作  

  • 弥彦神社所蔵のもう一本の大太刀

大太刀
拵共 三家正吉作 一口
銘 奉納伊夜比古大明神之広前宝祚無窮親一王及文武臣僚天下万姓長久安寧 天保十四年歳次癸卯二月日頸城郡高一田住人三家正吉作之
刃長 224.0cm(7尺4寸)
茎長 93.0cm(3尺1寸)
総長 317.0cm
新潟県指定文化財
弥彦神社所蔵(新潟県)

  • 越後国高田の刀工、三家正吉が天保14年(1843年)に奉納したもの。
  • 鞘巻太刀と拵えのすべてが越後の工匠たちによるもので、鍔は新発田の渡辺寛敬による書「神武不賊」を金象嵌したもの。虎の目貫は工匠斎藤芳彦一代の作であるという。
  • 昭和30年2月9日、新潟県指定文化財