徳用守家

徳用守家(とくようもりいえ)  

太刀
銘 守家
号 とくよう
二尺四寸二分四厘
刃長73.3cm
御物

  • 畠田派の祖である備前守家の作。
  • 元身幅一寸七厘。表裏に棒樋をかき流す。鋩子は乱れこんで小丸。中心うぶ、目釘孔1個。佩表に「守家」の二字銘。
  • 徳川家康から贈られた畠田守家作の太刀

由来  

  • 「徳用」とは健全無比なことからつけた号。

来歴  

  • 武田信玄は、足利将軍家や本願寺、焼き討ちを受けた天台宗(比叡山)など在京諸勢力の度重なる要請、さらに長年関東で覇権を競った北条氏康がこの世を去ったことを受け、元亀3年(1572年)10月遂に上洛を開始する。
  • それに先立ち、上洛経路の三河遠江に伸長しつつあった徳川家でも信玄の動きを察知し、元亀元年(1570年)7月に信玄の後方となる上杉家に対して助力嘆願のため太刀を贈り同盟を申し出ている。
  • それによれば、権現堂という山伏に書状を持たせたという。※遠州秋葉山の修験先達叶坊光播と、その婿熊谷直包ともいう。

    新暦の御吉兆雛事舊更以不可有休期候仍刀一腰守家供覧候御秘蔵可為畏悦候委曲権現堂へ申含候條可在口上候 恐惶謹言
    二月六日 家康(花押)
    上杉殿

    この時二心無い旨の神文と浜松城の絵図とともに、この守家と馬代と謙信に贈っている。

  • 元亀3年(1572年)1月、謙信は関東へ出兵するも、氏康の遺命に従い同盟を締結した武田北条の同盟軍に阻まれ利根川を挟み対峙する。5月には信玄が調略しておいた越中一向一揆が加賀一向一揆と合流し、日宮城・白鳥城・富山城など越中の上杉方の城を攻略するに伴い、謙信は越中への重なる出陣を余儀なくされ、天正1年(1573年)4月に信玄が病没するまで続いた。
  • この間信玄は、元亀3年(1572年)10月には遠江の徳川方諸城を1日で落とし、さらに山県昌景率いる別働隊が三河の柿本城、井平城を落とし本体と合流する。
  • 10月14日、両軍は遠江一言坂において激突し、馬場信春率いる騎馬隊が容赦なく徳川方を撃破、徳川方は浜松城まで撤退するが、武田方は二俣城を包囲、12月19日にはこれを落とし、家康の遠江支配は大きく後退する。
  • その後12月22日には浜松城を無視する形で西方への進軍を続ける武田方の誘いに乗る形で三方ヶ原にて決戦する形になり、ここでも家康は多くの部下を失い敗退する。有名な「顰像(しかみ像)」を描かせたのはこの三方ヶ原の敗戦後である。
  • 江戸時代に入って後、徳川家からは返却要請が幾度か出されたが、上杉家では「見当り不申(見当たらない)」と申し立てて秘蔵したという。
  • 明治14年の明治天皇米沢巡幸のおり、宮内庁より献上の要請を受け、御物となった。
    明治10年ともいう。それによれば、これを展覧に供したところ大変お気に召され、夜の10時頃上杉斉憲にお召があった。帝がこの守家と備前国宗の短刀を起きに召されているので献上されてはいかがと侍従より話があったため、さっそく献上の手続きをとったという。