後藤藤四郎

後藤藤四郎(ごとうとうしろう)  

短刀
銘 吉光
名物 後藤藤四郎
9寸1分(27.7cm)
国宝
財団法人徳川黎明会所蔵

  • 享保名物帳所載

    後藤藤四郎 在銘長九寸一分半 代金三百枚(異本七千貫) 尾張殿
    後藤庄三郎所持、光室極めなり、光徳も出座なり、表鋒先の刄悪き迚(とて)光室の代付安し、光徳以の外ほめて右の代になり光甫も其座に居、慥(たしか)に覚たりと申すなり、然るに御城御帳に五千貫とあり、寛永五辰九月二日土井大炊頭殿宅へ家光公渡御の刻上る、千姫君様入輿の節拝領なり

  • 平造、三つ棟、内反、やや大振りの短刀。鋩子乱れ込み、掃きかけ火焔となる。なかご生ぶ、先栗尻、鑢目勝手下がり。目釘孔4個。目釘孔下に「吉光」の二字銘が入る。

由来  

来歴  

  • いつの頃か老中土井大炊守利勝の所有となり、名物帳では寛永5年(1628年)9月2日三代将軍家光が土井邸に臨駕のとき献上とする。

    寛永五辰九月二日土井大炊頭殿宅へ 家光公渡御之刻上ル

  • ただしこれは誤りとされ、徳川実紀によれば翌年寛永6年(1629年)8月28日長光太刀、左文字の刀とともにこの「後藤藤四郎」が献上されている。将軍から下賜されたのは「金森正宗」。

    廿八日土井大炊頭利勝が邸に臨駕したまふ。利勝に金森正宗の御脇差。銀五百枚。袷五十給ふ。利勝より長光太刀。左文字の刀。吉光の脇差

  • 寛永16年(1639年)9月28日、家光の長女千代姫と尾張家二代光友の婚礼の際、祝儀として家光より名物五月雨江」、「上野貞宗」とともに拝領した。

    廿八日干代姫御方西城の奧へまうのぼりたまふ。右兵衞督光友朝臣もまうのぼられ。白木書院にて御對面あり。眞守の太刀。時服五十。卷物五十。銀千枚獻ぜらる。大納言義直卿も定利の太刀。時服五十。綿五百把。金百枚さゝげらる。御盃つかはされ。光友朝臣へ五月雨郷の御刀。吉光の御脇差を引出物し給ひ。義直卿へ貞宗の御刀。大森吉光の御脇差をつかはさる。

千代姫(霊仙院)は家光の長女。徳川家綱(4代将軍)、徳川綱重、徳川綱吉(5代将軍)の異母姉(すべて母が異なる)。兄弟の家系はすべて断絶したため、家光の血筋を現在にまで伝えているのは女系の千代姫の血筋のみとなっている。
婚姻は千代姫数え3歳の時に行われ、その際の婚礼道具は非常に豪華なものとなっている。源氏物語の「初音」の帖をテーマにした蒔絵意匠が施されたために「初音の調度」、また見飽きることがないという喩えから「日暮しの調度」とも呼ばれる。ほかに「胡蝶」の帖をテーマにした「胡蝶の調度」などと合わせて計70点が国宝指定を受けている。

  • 以後尾張徳川家に伝わる。
  • 元禄の末ごろに老中から、尾張藩付家老である成瀬隼人正正幸に対して、次の尾張藩主出府の際には、木曽の御料林を幕府に献上し、かつ江戸出府の手土産に「後藤藤四郎」を献上するようとの内示があった。これに対して成瀬は、千代姫様の思し召しも測りがたい上、そんなことであれば藩主も出府しますまいと撥ね付けた。これを聞いた正幸の父成瀬正親は、わしもこれで安心して冥土にいけると喜んだという。
    なお千代姫(霊仙院)は元禄11年(1698年)死去。成瀬正親は元禄16年(1703年)に65歳で死んでいる。正幸は延宝8年(1680年)生まれであるため、話を断った時まだ18歳そこそこの青年であったことになる。




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