後藤庄三郎

後藤庄三郎(ごとうしょうざぶろう)  

江戸幕府の御金改役(おかねあらためやく)
小判座(金座)の後藤庄三郎家

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概要  

  • 初代後藤庄三郎は、後藤四郎兵衛(大判座後藤)の職人として働く中、五代後藤徳乗に抜擢され別家を起こした。
    京都の大判座後藤家は室町幕府以来の御用金匠であり、茶屋四郎次郎家、角倉了以家と共に京都の三長者と呼ばれた。

生涯(初代:庄三郎光次)  

  • 元亀2年(1571年)生まれ。本姓橋本(あるいは山崎)。
  • 橋本庄三郎は京都大判座後藤で働くうち、後藤姓を許され後藤庄三郎光次を名乗る。
  • 当時判金といえば大判のことであったが、家康は貨幣としての流通を前提とした一両小判の鋳造を構想していた。
  • 初代庄三郎は、後藤四郎兵衛家の五代目後藤徳乗の名代として江戸に招かれ、江戸本町一丁目を拝領している。
    この屋敷地には現在日銀本店が建っている。なお小判座が金座と呼ばれるのは元禄11年以降とされる。
  • 家康は、慶長6年(1601年)慶長金銀を制定し、初代庄三郎に判金鋳造を命じている。
  • 初代庄三郎はのち拝領地に後藤屋敷を建て屋敷内で小判の験極印を打つ後藤役所を設けている。
  • 慶長8年(1603年)に家康が征夷大将軍に任ぜられると、庄三郎は小判座の長である「御金銀改役」となって小判座を統括し、以後、御金改役は後藤庄三郎家が代々世襲することとなった。
  • のち銀座設立にも関与し、さらに天領の金山、銀山を支配し、家康の財政、貿易などの顧問として権力を誇った。
    初代は「御金銀改役」であったが、二代以降は銀管理の職掌が少なくなり、宝永2年(1705年)には「御金改役」と"銀"が無くなっている。
  • 寛永2年(1625年)没。

系譜  

  • 初代ののち、「後藤庄三郎」は金座当主である御金改役(おかねあらためやく)が代々名乗る名前となった。
  • 「後藤庄三郎家」:初代~11代
    当初大判座後藤家より後藤の名乗りを許された際に、一代限りという約束であったが、結果的にそれを反故にして別家を起こした形となった。
  • 「後藤三右衛門家」:庄三郎12代は分家から三右衛門が継いだ。

二代:庄三郎広世  

  • 二代後藤庄三郎広世には昔から家康の落胤という説がある。
  • 後藤家伝によれば、初代庄三郎光次の父の代から家康に拾われたともいう。
  • 初代庄三郎光次の祖父は美濃加納城主の長居彦右衛門利治で、加納城が落城した時に嫡子彦四郎利徳は京に逃れた。
  • 文禄2年(1593年)にはその子供の庄三郎光次も召し抱えられ、庄三郎光次は利発で才覚があり、家康の寵を受けた。
  • のち庄三郎光次は、青山善左衛門正長の娘で「大橋局」というものを家康より下賜され、これを嫁に娶った。その後生まれたのが二代の庄三郎広世であるという。

    庄三郎光次妻儀者、青山善左衛門正長娘、権現様上意以縁組仕候、然上大橋局と申を妻に被下置、其腹に出生仕候男子、二代目庄三郎に而、元和二年、御老中酒井雅楽頭忠世烏帽子子として、忠世宅に於て元服仕、廣世と相名乗申候
    但、庄三郎廣世出生仕候譚、申傳之儀御座候得共、恐多筋も御座候間、書面に相認不申候
    (後藤庄三郎由緒書)

    異説が幾つもあり、家康ではなく秀忠であったり、青山の娘がはじめの妻で大橋局が側室であるともいう。ただし家康に大橋局という名の側室は伝わっていない。上記由緒書でも「書面では確認できない」とわざわざ断りを入れている。

  • このためか、庄三郎広世は元和2年(1616年)には重臣である酒井忠世を烏帽子親として元服し、また長兄がいたにも関わらず二代目を継ぐことになったという。

11代:庄三郎光包  

  • 文化2年(1805年)に家督を継ぐ。
  • 文化7年(1810年)、不正発覚により伊豆三宅島に遠島流罪となり庄三郎家は断絶する。
  • 金座の御金改役は分家の三右衛門が継いだ。

後藤三右衛門家  

  • 後藤庄三郎家は金座銀座を支配していたが、文化7年(1810年)に取り潰され、分家の三右衛門方至がその地位を継いでいる。

初代:三右衛門方至(12代庄三郎)  

  • 初代後藤庄三郎の養子庄吉方之家の子孫(三右衛門家七代目)として生まれる。
  • 銀座年寄を務めていたが、文化7年(1810年)に後藤庄三郎家が取り潰されると初代三右衛門がその後を継ぎ金座の御金改役となった。
  • 文化11年(1814年)死去。

二代:三右衛門光亨(13代庄三郎)  

  • 信濃飯田城下、大横町の商人である林弥七言政の四男奥輔は、初代後藤三右衛門方至の婿養子となる。文化13年(1816年)三右衛門家を継ぎ、金座御金改役となった。
  • 文政小判・天保小判の改鋳などを行うことで約1千万両の益金を上げたことで幕府財政に貢献し、老中水野忠邦に取り立てられた。鳥居耀蔵(蛮社の獄で洋学を弾圧)、渋川六蔵(書物奉行として「英文鑑」を訳述)とともに、天保改革における「水野の三羽烏」と称された。
  • しかし忠邦失脚後に鳥居、渋川らは失脚。後藤三右衛門光亨も、弘化2年(1845年)に驕奢などを理由に処刑され、三右衛門は断絶した。
    天保14年(1843年)に老中首座であった水野忠邦は一度失脚するが、弘化元年(1844年)に江戸城本丸が火災により焼失すると老中首座となっていた土井利位は再建費用を集めることができず失脚。代わりに忠邦が老中首座に復帰する。しかしこの再登用が阿部正弘らの反発を招いたこともあり、弘化2年(1845年)、後藤三右衛門から水野忠邦への16万両の贈収賄が暴かれたことにより水野忠邦は失脚、三右衛門は斬首となった。

後藤吉五郎光弘(14代庄三郎)  

  • 大判座十六代後藤方乗の嫡子で、弘化2年(1845年)に養子となり庄三郎家を継ぐ。
  • 慶応4年(1868年)4月、金座および銀座は明治新政府に接収され、太政官に設けられた貨幣司の下、十四代吉五郎光弘は二分判などの貨幣の製造を取り仕切った。
  • しかし明治2年(1869年)2月には貨幣司も廃止され、金銀座関係者は解任された。

関連項目