当引長光

当引長光(あてびきながみつ)  

太刀
長光
二尺四寸九分

来歴  

  • もとは島津家久が豊臣秀吉の遺物として賜ったものであるという。
    秀吉公御遺物」には記載が無いため、いつ贈られたものかは不明。
  • 慶長19年(1614年)大坂冬の陣のあと、島津家久(忠恒、初代薩摩藩主)が伊達屋敷を訪れた際、政宗に御家来の片倉小十郎(重長)殿を呼んでいただきたいと所望した。
  • そこで政宗が小十郎を臨席させると、先の戦での貴公の戦いぶりは見事であったといい、この長光を小十郎に贈ろうとした。
  • しかし、小十郎は恐れ多いことであるとして、主人の政宗に賜りたいと断り、あらためて家久から政宗に贈られたもの。
  • 政宗は隠居したら差料にするといっていたが、差料にする前に没したという。
    なお初代の小十郎(片倉景綱)はこの頃すでに体調を悪くしており翌年の元和元年(1615年)10月に病死している。この逸話の小十郎とは、その息子片倉重長である。また重長が後藤基次を打ち取り名を挙げたのは翌年の夏の陣でのことであり、この逸話自体が翌年の元和元年(1615年)の話である可能性が高い。

    この大坂夏の陣で「真田日本一の兵」の言葉を手紙に残したのも、この島津家久である。ただし島津家は両度の大阪の陣には出陣していない。
  • 天和3年(1683年)、政宗の曾孫に当たる伊達綱村が、片倉景綱の曾孫にあたる片倉村長へと下賜した。
    片倉村長は1681年(延宝9年)に家督を継ぎ、1691年(元禄4年)には享年26で病死している。この間に贈られたものと思われる。なお村長の村は綱村の一字を拝領したものであり、さらに綱村は徳川家綱から偏諱を与えられて初名綱基から改名したものである。