平教経

平教経(たいら の のりつね)  

平安時代末の武将
正五位下、能登守、民部大輔

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生涯  

  • 平教経は、永暦元年(1160年)に平教盛の次男として生まれる。母は藤原資憲の娘。
    教経の父教盛は平清盛の異母弟であり、能登守教経と平清盛とは伯父と甥の関係にあたる。
  • 治承3年(1179年)、能登守に任官。
  • 教経の活躍は主に「平家物語」により語られ、平家の公達の中ではずば抜けた武勇を誇り、都落ちのあと沈みゆく平家を支えた。

以仁王の令旨  

  • 栄華を極めていた平氏に対する公家や武士の不満は、平氏と後白河法皇との対立を露わにし、治承元年(1177年)鹿ケ谷の陰謀が起こる。これに対して清盛はクーデターを決行(治承三年の政変)して巻き返しを図り、後白河法皇を鳥羽殿に幽閉する。
  • 治承4年(1180年)4月、城興寺領を没収され院宣により皇族籍を剥奪された以仁王(後白河法皇の第3皇子)が挙兵し、令旨を発した。以仁王自身は、延暦寺の協力を得られず奈良興福寺へ向かう途中、宇治平等院で追討軍に討たれてしまう(治承・寿永の乱の始まり)。
  • しかし以仁王が東国で生存しているという噂は令旨とともに流れ、8月以後、源頼朝や木曾義仲など各地の源氏が挙兵、反平氏の動きは武家だけでなく興福寺や園城寺にも広まる。さらに親平氏であった延暦寺でも反平氏の動きが出始めると、清盛は6月に京都を捨て福原行幸を強行する。
  • 11月にはいったん平安京へ戻った清盛だが、平氏方が園城寺や興福寺、東大寺まで火を掛けたことで仏敵の汚名を着てしまう。また治承4年(1180年)末から、平氏の勢力基盤である西国においても、伊予の河野氏、豊後の緒方氏、臼杵氏、佐賀氏などが挙兵する。
  • 東国への追討の準備を整える清盛だったが、治承5年(1181年)2月病に倒れ、死亡する。
  • 清盛の跡は三男であった平宗盛が継ぐが、寿永2年(1183年)に倶利伽羅峠の戦いで平氏軍が壊滅すると、木曽義仲軍の攻勢の前に成す術無く都落ちする。
  • こののち能登守平教経は、水島の戦い、六ヶ度合戦、屋島の戦いと、西国へ落ち延びる中で奮戦し、源氏を苦しめ続けた。

壇ノ浦の戦い  

  • 壇ノ浦の戦いでは当初平氏方が有利に進めていたが、午後になると潮目が変わり、ついには源氏方が押し始める。さらに義経による水手舵取を射るという奇策、阿波水軍の裏切りにより、平氏方の敗北が濃厚になる。
    水手・舵取とは軍船の漕手のこと。当時は非戦闘員だとみなされ、互いに攻撃しないという暗黙の了解があったとされる。
  • 二位尼や安徳帝が入水する中でも教経は一人奮戦し、源氏方の坂東武者を次々と葬っていった。
  • ついに見かねた総大将平知盛(新中納言)が「(教経の相手ともならない)よき敵でもあるまいに、罪作りなことをなさるものではない」と咎めると、「ならば敵の大将とまみえん」として敵将を探しはじめ、義経の姿を彼方に認めるとその舟へと移っていった。

    新中納言見給ひて、使にて、「詮なきしわざかな。あまりに罪なつくり給ひそ。さればとてしかるべき者にてもなし」とのたまへば、「さては、このことば、『大将軍に組め』とごさんなれ」とて、そののちは、源氏の船に乗りうつり、乗りうつり、おし分け、おし分け、九郎判官をたづね給ふ。
    (平家物語)

  • いざ義経に飛びかかろうとすると、義経は鎧を着たまま飛び上がるや、舟から舟へと飛び渡り、瞬く間に八艘彼方へ逃げてしまう。高名な「義経の八艘飛び」である。

最期  

  • 義経のあまりの身軽さに叶わぬと思った教経は、ここまでと覚悟を決めてその場で仁王立ちし、「我と思わんものは、この教経を生け捕りにして鎌倉へ連れてゆけ。兵衛佐(頼朝)に物申さん」と大音声で呼ばわった。
  • これに対して、強力で知られた土佐の安芸太郎と次郎の兄弟がかかってくると、「可愛や。貴様ら吾の死出の共をせよ」といって兄弟を両脇に抱えたまま海に飛込み、そのまま上がってこなかったという。
  • 享年26歳。

    判官殿まぼらへて、「これほど運尽きなんうへは」とて、長刀海へ投げ入れ、兜もぬいで海へ入れ、鎧の袖をかなぐり捨て、大童にて立ち、「われと思はん者、教経生捕り、鎌倉へ具して下れ。兵衛佐にもの言はん。寄れや。寄れや」とのたまへども、寄る者なかりけり。 ここに土佐の国の住人、安芸の郡を知行しける安芸の大領が子に、大領太郎実光とて、三十人が力あり。弟安芸の次郎もおとらぬしたたか者。主におとらぬ郎等一人。兄の太郎、判官の御前にすすみ出でて申しけるは、「能登殿に寄りつく者なきが本意なう候へば、組みたてまつらんと存ずるなり。さ候へば、土佐に二歳になり候ふ幼き者不便にあづかるべし」と申せば、判官、「神妙に申したり。子孫においては疑ひあるまじき」とのたまへば、安芸の太郎主従三人、小船に乗り、能登殿の船にうつり、綴をかたぶけ、肩を並べてうち向かふ。能登の前司、先にすすみたる郎等を、「にくいやつかな」とて、海へざんぶと蹴入れらる。太郎をば左の脇へはさみ、次郎をば右の脇にはさみ、一しめ締めて、「いざうれ。さらば、おのれら死出の山の供せよ」とて、生年二十六にてつひに海へぞ入り給ふ。




刀剣  

  • 教経が厳島神社に奉納した「友成」の太刀国宝に指定されている。
  • 厳島図絵では、平教経奉納の銘「行吉」を記す。ただし行吉銘に疑いが持たれている。

    能登守教経朝臣太刀
    太刀中心ノ銘ニヨルトキハ教経朝臣ノ太刀タルベカラズイカニトイフニ行吉トイフ鍛冶数人アレドモミナ承久年間ヨリ後ナリ朝臣ハ文治元年ニ長門ノ赤間関ニテ入水シ玉ヘリ文治ヨリ承久マデ凡三十年バカリモ経タレバ行吉作ノ太刀ヲ朝臣帯玉フベキヨシハナキコトナリ

逸話  

  • 「平家物語」では数々の活躍を見せる教経だが、源氏方が編纂した「吾妻鏡」では目立った活躍をしておらず、そればかりか一の谷の戦い後に甲斐源氏安田義定の軍に討ち取られ、京都で獄門になっている。
  • 四国・九州に伝わる河童の妖怪海御前(あまごぜ)は教経の妻(もしくは母親)の化身だと言われている。河童の女親分と言われ、教経の妻または母が福岡まで流れ着き、河童に化身したものとされる。なお他の女官たちは手下の河童に、武将たちはヘイケガニに化身したと言う。

関連項目