巴作太刀

巴作太刀(ともえづくりのたち)  

太刀
豊後佐伯氏伝来

  • 豊後の豪族佐伯家の重宝。
  • 伝説によれば、佐伯氏先祖の大神惟基の母は堀川大納言の息女で、その人が祖母山(そぼさん)(祖母岳)の大蛇から授けられたという。
    惟基の母については、塩田の里の大太夫(だいだゆう)の娘花の本(はなのもと)、藤原仲平の娘、藤原伊周の娘など諸説ある。

来歴  

  • 大神惟基の母が大蛇から授けられたという太刀は、後に五男の流れの臼杵氏に伝わり、平安時代末期には「小さすが」と呼ばれていたという。

    緒方三郎惟宗の時に小さすがと号す

    「さすが」とは剃刀のことで、もとは太刀に対する刀(脇指し)のことをいう。小が付くため、短刀ではなかったかと思われるが、後には「巴作太刀」となっている。

大友氏重臣  

  • 鎌倉時代に大友氏が豊後守護として入部すると、佐伯氏はこれに協力し、以後同家の重臣として仕えた。
  • 佐伯氏14代当主であった佐伯惟定は、天正14年(1586年)の堅田合戦では島津家久の軍を撃退、天正15年(1587年)には府内から撤退する島津義弘と島津家久兄弟の軍を日豊国境の梓峠で撃破した。
    この時惟定は島津義弘所有の唐物茶入を入手しており、後に惟定にちなんで「佐伯肩衝」と呼ばれた。

藤堂氏家臣  

  • 文禄の役の際の失態で主家大友家が改易された後、佐伯惟定はいったん豊臣秀保の客将となり、秀保没後はその家臣であった伊予宇和島城主藤堂家に臣従した。
  • 佐伯惟定は元和4年(1618年)6月9日に没し、子の惟重が家督を継いだ。
  • 藤堂家が伊勢津に移封になった後、藩主藤堂高次(藤堂家2代、津藩2代藩主)が「巴作太刀」を見たいと所望した。
  • 佐伯惟重はこれを断り難く、寛永3年(1626年)10月10日の夜に「巴作太刀」を城中に持参した。高次が家臣に命じて抜かせるが、何故か抜けない。佐伯惟重が受け取って高次に渡そうとすると、突然床板が崩れ落ちて数人が転倒してしまった。

    高次直に手を掛くる事を憚り杉原一枚手にしき太刀を取抜かんとしぬれ共抜けず、其時惟重請取り抜て高次に渡さんとする時、座の板敷崩れ落て座中五六人卒倒す

  • 翌朝、大工を呼んで修繕させようとすると、跡形もなく元通りになっていたという。
  • のち、この太刀は伊勢津の富尾宮に奉納されたという。

五剣  

  • 佐伯一族に伝わる「手鉾之太刀(不抜之太刀)」、「飛龍之太刀」、「神息太刀」、「小屏風長刀」、「巴作り之太刀」の五剣を所持していたと記されている。