川口陟

川口陟(かわぐちのぼる)  

日本の作家、鑑刀家
室津鯨太郎

生涯  

  • 明治16年(1883年)高知県室津の生まれ。
  • 室津港は、江戸時代に開港したわが国最古の掘込港とされ、江戸時代から明治時代にかけて捕鯨基地として栄えた。それにちなみペンネームを「室津鯨太郎」としたという。
    室津港を最初に整備したのは最蔵坊とされ、元は毛利秀元に仕えた武将だという。関ヶ原の後に僧となり諸国をめぐる。室戸岬にある空海ゆかりの最御崎(ほつみさき)寺を再興したほか、土佐藩2代藩主山内忠義の命を受け、津呂港(室津港)の整備を行った。工事はのち土佐藩執政(家老)の野中兼山により続けられ、さらに普請奉行一木権兵衛により現在の内港が完成したという。後述
  • 東京に出て本阿弥光遜に師事し、その後精力的に刀剣関係の書物を出版し続けた。
  • 東京での活動拠点を南人社と呼んでいる。
  • 昭和39年(1964年)没。

書籍  

  • 月刊誌「刀剣研究」:昭和34年(1959年)~昭和39年(1964年)
  • 日本刀剣全史」:昭和48年(1973年)




一木権兵衛(いちきごんべえ)  

江戸前期の土木行政家
土佐藩の普請奉行
室津港掘削工事の人柱となり自刃した

  • 元は一領具足と呼ばれた長宗我部の家臣。
  • 執政野中兼山に小姓として仕え、のち認められ土佐藩内の河川・港湾工事を多く手がけた。
    野中兼山の祖父、野中良平の妻は山内一豊の妹合で、父の良明は5000石を領した。のち浪人するが、父の死後兼山は母とともに土佐に戻り、父の従兄弟で奉行職の野中直継の娘・市の入婿となる。2代藩主忠義に重用され、堤防の建設、平野部の開拓と米の増産、森林資源の活用などを行う。明暦2年(1656年)に忠義が隠居すると、兼山の施政に不満を持つものが3代藩主忠豊に弾劾状を提出、兼山は失脚し宿毛に幽閉された。
  • 室津港の工事は特に難工事で、港口を塞ぐように斧岩、鮫岩、鬼牙岩という3つの大きな岩が海中にあったのを、「張扇式の堤」により取り囲んだうえ、中の海水を抜いてから大鉄槌やのみで砕いたという。膨大な人足を用いた工事は次第に藩財政を圧迫するようになり、野中兼山が失脚すると工事への非難は一木権兵衛が一身に背負うことになった。
  • この3つの岩は、地元では竜王(海神)が大事にしていると伝えられた岩であり、砕こうとしても翌日には元通りになってしまったり、または岩を砕くと血が流れ出たという。

    礁へ石鑿を打ちこむと、血が出たとか、前日に欠いであった処が、翌日往くと、元の通りになっておったとか、何人が夜遅く酔ぱらって、此の上を歩いておると、話声がするから、声のする方へ往ってみると、彼の礁の上に小坊主が五六人おって、何か理の解らん事を云っておるから、大声をすると河獺が水の中へ入るように、ぴょんぴょんと飛びこんだとか、いろいろの事を云いまして

  • 工事の遅れに追い詰められた一木権兵衛は、海神に向かって「此役成に至候は、我命則牲と成て君に捧げん」と誓い、それにより工事が大きく進展すると、延宝7年6月17日夜、海中に明珍長門家政作の甲冑、相州行光作の刀を海中に投げ入れると、港の上の石登崎において自刃して果てたという。
  • 浦の人々は、工事のために尽力し人柱として果てた一木権兵衛の魂を慰めるために一木神社を建立したという。一木神社境内には、今もノミの跡が残る「御釜岩」が残されている。