岩融

岩融(いわとおし)  

大薙刀

  • 武蔵坊弁慶が振るったとされる薙刀で、刃の部分だけでも三尺五寸あったという。
  • 三条小鍛冶宗近の作との伝説が伝わる。

    三条小鍛治、寛和元<乙酉(きのととり)>御即位御門ヲ一条ノ院ト申、(略)又弁慶長刀岩融三尺五寸造之。
    長享銘尽

    ただし長享銘尽ごろの記載は非常に怪しい。「髭切伝承」に見るように、源氏を代表する髭切ですらこの混乱ぶりであり、すでに成立していた義経記を見て宗近に仮託したと見た方がいいだろう。

  • 義経記では、薙刀ではなく太刀の脇にさした刀であるという。

    武蔵坊はわざと弓矢をば持たざりけり。四尺二寸有りける柄装束の太刀帯いて、岩透と言ふ刀をさし

    くどくどとした伝承などが書かれていない分、むしろ信ぴょう性があるくらいである。

  • そもそも弁慶の存在自体が確実ではないため、伝説の人物が所持した伝説の武器である。
    • 正史である吾妻鏡には、弁慶の名前は2ヶ所しか登場しない。後述。






武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)  

  • 武蔵坊弁慶は、もと比叡山の僧で、五条大橋で源義経と出会い、その後は義経に仕えたとされる伝説的な人物。

生涯  

  • 熊野別当の湛増(一説に、弁しょう、または弁心)が、二位大納言の姫を強奪して産ませたとされる。

    俗姓を尋ぬるに、天児屋根の御苗裔、中の関白道隆の後胤、熊野の別当弁せうが嫡子、西塔の武蔵坊弁慶とぞ申しける。

  • 母の胎内に18ヶ月もいたため、生まれ落ちた時には2~3歳児の体つきをしており、髪は肩を隠すほど伸び歯も生えそろっていたという。

    別当此の子の遅く生まるる事不思議に思はれければ、産所に人を遣はして、「如何様なる者ぞ」と問はれければ、生まれ落ちたる気色は世の常の二三歳ばかりにて、髪は肩の隠るる程に生ひて、奥歯も向歯も殊に大きに生ひてぞ生まれけれ。別当に此の由を申しければ、「さては鬼神ごさんなれ。しやつを置いては仏法の仇となりなんず。水の底に紫漬にもし、深山に磔にもせよ」とぞ宣ひける。

  • 父湛増は鬼子(おにご)だとして殺そうとするが、叔母に引き取られて鬼若と名付けられ育てられた。

    京へ具して上り、善くは男になして、三位殿へ奉るべし。悪くは法師になして、経の一巻も読ませたらば、僧党の身として罪作らんより勝るべし」と申されければ、さらばとて叔母に取らせける。産所に行きて産湯を浴びせて、鬼若と名を付けて、五十一日過ぎければ、具して京へ上り、乳母を付けてもてなし伝きける。

比叡山  

  • 成長した鬼若は比叡山に入れられるが、乱暴が過ぎて追い出される。鬼若は自ら剃髪し、武蔵坊弁慶を名乗る。

    六歳の時疱瘡と言ふものをして、いとど色も黒く、髪は生まれたる儘なれば、肩より下へ生ひ下り、髪の風情も男になして叶ふまじ、法師になさんとて、比叡の山の学頭西塔桜本の僧正の許に申されけるは、「三位殿の為には養子にて候ふ。学問の為に奉り候ふ。眉目容貌は参らするに付けて恥ぢ入り候へども、心は賢々しく候ふ。書の一巻も読ませて賜び候へ。心の不調に候はんは直させ給ひ候ひて、如何様にも御計らひにまかせ候ふぞ」とて上せけり。

    実名は父の別当は弁せうと名乗り、其の師匠はくわん慶なれば、弁せうの弁とくわん慶の慶とを取つて、弁慶とぞ名乗りける。

  • やがて、京で千本の太刀を奪おうという悲願を立て、道行く帯刀の武者を襲い、999本までを集める。最後の1本を集めるところで、五条大橋を笛を吹きながら通って行く義経と出会う。

    弁慶思ひけるは、人の重宝は千揃へて持つぞ。奥州の秀衡は名馬千疋、鎧千領、松浦の太夫は箙千腰、弓千張、斯様に重宝を揃へて持つに、我々は代はりの無ければ、買ひて持つべき様なし。詮ずる所、夜に入りて、京中に佇みて、人の帯きたる太刀千振取りて、我が重宝にせばやと思ひ、夜な夜な人の太刀を奪ひ取る。

  • 弁慶が襲いかかるも、欄干を巧みに飛び回る身軽な義経に敵わず、逆に返り討ちにあってしまう。降参した弁慶は、それ以来義経の家来となり、生涯を伴にすることを誓う。
    • 当時五条に大橋はなかったとされ、堀川小路から清水寺での出来事とされる。

平氏追討  

  • やがて源頼朝が兵を挙げたのに伴い、義経軍の兵として戦い、様々な場面で活躍し義経の相談に乗り、またある場面ではその武勇を奮って獅子奮迅の戦いをする。
  • 見事平氏打倒を成し遂げ京へ凱旋したのも束の間、義経が頼朝からの疑いをかけられ、京を脱出し、奥州藤原氏を頼りに北上する。

勧進帳  

  • 一行は加賀国安宅の関(石川県小松市)の如意の渡しにおいて、富樫左衛門(富樫泰家)に見咎めを受けるが、弁慶は東大寺債権のために諸国勧進を行っている者だと言いはり、怪しんだ富樫にならば勧進帳を読んでみよと命じられる。

    富樫これを見て、「如何なる山伏ぞ」と言へば、「是は東大寺勧進の山伏にて候ふ」「是は御内勧進の為に参りて候ふ。伯父にて候ふ美作の阿闍梨と申すは、東山道を経て、信濃国へ下り候ふ。此の僧は讚岐の阿闍梨と申し候ふが、北陸道にかかり、越後に下り候ふ。」

  • 弁慶はたまたま持っていた巻物をさも勧進帳であるがごとく朗々と読み上げ、一行の危機を救う。続いて小柄な義経に疑いをかけるが、弁慶は「お前が義経に似ているために、あらぬ疑いをかけられてしまったではないか」と罵りながら金剛杖で主人である義経を何度も打ち叩き、疑いを晴らす。

    弁慶是を聞きて、「抑此の中にこそ九郎判官よと、名を指して宣へ」と申しければ、「あの舳に村千鳥の摺の衣召したるこそ怪しく思ひ奉れ」と申しければ、弁慶「あれは加賀の白山より連れたりし御坊なり。あの御坊故に所々にて人々に怪しめらるるこそ詮無けれ」と言ひけれども、返事もせで打ち俯きて居給ひたり。弁慶腹立ちたる姿になりて、走り寄りて舟端を踏まへて、御腕を掴んで肩に引つ懸けて、浜へ走り上がり、砂の上にがはと投げ棄てて、腰なる扇抜き出だし、労はしげも無く、続け打ちに散々にぞ打ちたりける。見る人目もあてられざりけり。

  • 富樫は義経一行であることを見破ってはいたが、弁慶の忠義心に痛く感動し、通行を許してしまう。この場面が高名な歌舞伎の「勧進帳」「義経千本桜」、能の「船弁慶」などに登場する。

立ち往生  

  • 奥州へたどり着いた一行だが、奥州藤原氏にもすでに義経追討の命は届いており、一行を衣川館へと案内し、やがて義経を庇護していた藤原秀衡が死ぬと子の泰衡は父の遺言を破り衣川館を兵で取り囲む。
  • 多勢に無勢の戦いの中、弁慶は堂の入り口で薙刀を奮うが、雨のような矢を受け仁王立ちしたまま死んだ(弁慶の立ち往生)という。

    弁慶今は一人なり。長刀の柄一尺踏折りてがはと捨て、「あはれ中々良き物や、えせ片人の足手にまぎれて、悪かりつるに」とて、きつと踏張り立つて、敵入れば寄せ合はせて、はたとは斬り、ふつとは斬り、馬の太腹前膝はらりはらりと切り付け、馬より落つる所は長刀の先にて首を刎ね落し、脊にて叩きおろしなどして狂ふ程に、一人に斬り立てられて、面を向くる者ぞ無き。鎧に矢の立つ事数を知らず。折り掛け折り掛けしたりければ、簔を逆様に著たる様にぞ有りける。黒羽、白羽、染羽、色々の矢共風に吹かれて見えければ、武蔵野の尾花の秋風に吹きなびかるるに異ならず。八方を走り廻りて狂ひけるを、寄手の者共申しけるは、「敵も味方も討死すれども、弁慶ばかり如何に狂へ共、死なぬは不思議なり。音に聞こえしにも勝りたり。我等が手にこそかけずとも、鎮守大明神立ち寄りて蹴殺し給へ」と呪ひけるこそ痴がましけれ。武蔵は敵を打ち払ひて、長刀を逆様に杖に突きて、二王立に立ちにけり。偏に力士の如くなり。一口笑ひて立ちたれば、「あれ見給へあの法師、我等を討たんとて此方を守らへ、痴笑ひしてあるは只事ならず。近く寄りて討たるな」とて近づく者もなし。然る者申しけるは、「剛の者は立ちながら死する事あると言ふぞ。殿原あたりて見給へ」と申しければ、「我あたらん」と言ふ者もなし。或る武者馬にて辺を馳せければ、疾くより死したる者なれば、馬にあたりて倒れけり。立ちながらすくみたる事は、君の御自害の程、人を寄せじとて守護の為かと覚えて、人々いよいよ感じけり。

伝説  

  • これら多くの弁慶の物語は多くは「義経記」でのみ書かれるものであり、その存在すら疑われている。一の谷の合戦以降では名前が散見されるものの、特に平氏追討までの前半生については創作であるとされている。
  • 正史である吾妻鏡では1185年11月の2条に義経一行として名前のみが登場している。

    文治元年(1185年)十一月大六日乙酉。行家。義經於大物濱乘船之刻。疾風俄起而逆浪覆船之間。慮外止渡海之儀。伴類分散。相從豫州之輩纔四人。所謂伊豆右衛門尉。堀弥太郎。武藏房弁慶并妾女(字靜)一人也。今夜一宿于天王寺邊。自此所逐電云々。今日。可尋進件兩人之旨。被下 院宣於諸國云々。

    文治元年(1185年)十一月大三日壬午。前備前守行家(櫻威甲)伊豫守義經(赤地錦直垂。萌黄威甲)等赴西海。先進使者於 仙洞。申云。爲遁鎌倉譴責。零落鎭西。最後雖可參拝。行粧異躰之間。已以首途云々。前中將時實。侍從良成(義經同母弟。一條大藏卿長成男)伊豆右衛門尉有綱。堀弥太郎景光。佐藤四郎兵衛尉忠信。伊勢三郎能盛。片岡八郎弘經。弁慶法師已下相從。彼此之勢二百騎歟云々。

    • ただし吾妻鏡は当時の伝承をも含み編纂されているため、書かれているからといって必ずしも実在を証明するものではない。
  • 高名な「腰越状」が1185年5月であり、その後10月には行家追討の院宣が、そして翌11月にはついに義経追討の院宣が出てしまう。
  • 11月、義経一行は摂津大物浦(兵庫県尼崎市)から舟で九州に落ちようとするが、暴風により難破し散り散りに摂津に押し戻されてしまう。さらに11月7日には、「検非違使伊予守従五位下兼行左衛門少尉」を解任され義経は無位無官となってしまう。
  • その後、弁慶を含む郎党や静御前を連れて吉野から東北へと落ちてゆく逃避行については、義経記に詳しい。


  • 一説には比叡山を抜けて都落ちをする義経を、比叡山の僧兵が庇護し奥州まで案内したともいわれている。また正規の武士ではない義経の周囲には怪しげな人物がいたともいわれ、それらの逸話が武蔵坊弁慶を作り上げたとも言われる。
  • 義経は、当時の情報伝達事情を考えるとその活躍がほぼリアルタイムで広く名前を知られた人物であり、この日本史上はじめて登場した英雄であるともいえる。栄光と悲劇の両面を持つ源氏の棟梁の若武者としての華々しい登場と八面六臂の活躍、神出鬼没の天才的な戦略と実行力、そして短い栄華と裏腹にその後の痛々しいまでの没落、すべてが後の英雄譚の一典型となった。
  • その義経の活躍を支え悲劇を際立たせる存在として、「武蔵坊弁慶」の名は古くから有名であり、各地に弁慶の名を冠した史跡が残る。また「弁慶の泣き所」など故事ことわざにも数多く登場する。

弁慶の薙刀  

田束山伝来  

  • 奥州本吉郡の田束山は、安元年中に藤原秀衡が建立した巨刹。ここに弁慶の薙刀と称するものが伝来した。天和3年(1683年)冬に伊達家で召し上げている。

伊達家伝来  

薙刀
銘 国重
刃長二尺六寸一分

  • 伊達家には昔から伝来しており、刃長二尺六寸一分で「国重」と在銘。「昔者武蔵坊弁慶之所持也 我伊達伯世々伝為重器者也」と朱銘。

大薙刀  

大薙刀
刃長三尺二寸六分

  • 藩主重村が「伝言武蔵坊者之眉尖刀也 蔵于武庫也亦久矣因記 三尺晴雪 利用防君子身(花押)」と入れさせた。
  • 柄は白鞘のままであった。