山田浅右衛門

山田浅右衛門(やまだあさえもん)  

  • 江戸時代の役職である「御様御用(おためしごよう)」という刀剣の試し斬り役を務めていた山田家の当主が代々名乗った名前
  • 死刑執行人を兼ね、首切り浅右衛門、人斬り浅右衛門とも呼ばれた。
  • 名刀では「大典太光世」、「小竜景光」などと関わりがあり、五代吉睦による刀剣書「懐宝剣尺」が”業物”などの評価基準を定着させた書としてつとに有名である。

経緯  

  • 「御様御用」としては、江戸初期「試刀術」(試剣術)の名手として、谷衛好-衛友親子の弟子で幕府旗本であった中川重良の弟子、山野永久が知られていた。
  • 永久の子、勘十郎久英は1685年(貞享4年)に「御ためし御用」役として正式な幕臣となり、この頃から試し斬りだけでなく、(当時は名誉の役とされた)処刑の際の首切りの役目をも拝命するようになったという。しかし久英の子、吉左衛門久豊の跡継ぎであった弟に技量がなく山野家は御様御用の役目を解かれた。
  • その後山野家の弟子たちが「御様御用」を務めるが、その中の一人が当時浪人だった初代当主山田浅右衛門貞武であり、その技と役目は子の吉時に伝えられ代々「浅右衛門」を名乗るようになった。「御様御用」の役目自体は、腰物奉行の支配下にあった幕府の役目だが、山田家は浪人身分のままで据え置かれた。

系譜  

初代:貞武  

  • 通称角蔵、浅五郎、浅右衛門。
  • 山野勘十郎久英に師事して試し切りを修行し名人となる。
  • 享保元年(1716年)12月18日没60歳

二代:吉時  

  • 朝五郎、浅右衛門を襲名。
  • 幕府のお刀試し役と、死刑囚の首切り役を仰せつかる。
  • 試した死体の肝(胆嚢)から天寿慶心丸という秘薬を作って販売した。
  • 延亨元年(1744年)4月19日没

三代:吉継  

  • 角蔵、源蔵。浅右衛門襲名
  • 明和7年(1770年)5月22日没、66歳

四代:吉寛  

  • 源蔵、浅右衛門襲名。
  • 天明6年(1786年)9月17日没、49歳
  • 嗣子がなく、紀州藩家臣瀬尾甚右衛門の次男源蔵を養子に仕立てておき、死を幕府に届けた。
  • 翌7年(1787年)2月病気を理由に隠居し、三代目の娘が奥州湯長谷の領主内容政広の家臣三輪源八の妻であったため、その次男文三郎吉睦を養子に迎える。

五代:吉睦  

  • 三代吉継の娘の次男
  • 源五郎と改名するが、幕府の許可がおりなかったため晩年は朝右衛門と称す。
  • 初代以来の名人で多くの門人を育てた。
  • さらに肥前唐津藩の柘植平助が編纂した「古今鍛冶備考」の出版も行っている。
  • 文政6年(1823年)2月9日没、57歳
  • 晩年に源六吉貞を養子にしていたが文政12年に離縁。

六代:吉昌  

  • 源八郎
  • 五代吉睦が山田家に養子に行ったため、その後釜で三輪源八の養子になっていたが、さらに山田家の養子になった。
  • 朝右衛門を襲名。
  • 売薬の実入りがあり裕福だったのか、楠正成佩用という「覗き竜景光小竜景光)」を購入している。この景光は、のち明治6年に大久保一翁を通じて宮内省に献上され明治天皇の佩刀(御物)となった。
  • 嘉永5年(1852年)6月17日没

七代:吉利  

  • 備中新見の藩士、後藤五左衛門の次男。
  • はじめ五三郎、のち朝右衛門。
  • 吉年とも
  • 橋本左内、頼三樹三郎、飯泉喜内ら志士の首をはねた。
  • 明治17年12月29日没、72歳
  • 吉利の次男徳蔵佐吉、三男五三郎吉亮も家業を助けた。
  • 吉亮は雲井竜雄、島田一郎、夜嵐お絹、高橋お伝らも斬ったという。明治44年没、58歳


関連項目