山姥切

山姥切(やまんばぎり)  

  • 長義作の「山姥切」と、それを写した「山姥切国広」(堀川国広作)がある。
    1. 長義:「山姥切」
    2. 堀川国広:「山姥切国広」(山姥切写し)
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備前長船長義作の「山姥切」  


銘 本作長義天正十八年庚寅五月三日二九州日向住国広銘打 長尾新五郎平朝臣顕長所持云々
重要文化財
徳川黎明会所蔵

  • やまんばぎり

作刀  

  • 長義
  • 長義(ながよし、ちょうぎ)は通称は藤左衛門。相伝備前と呼ばれる南北朝期の備前鍛冶の中で兼光と並んで優れた技術を示す刀工正宗の門人で正宗十哲のひとりという。この「山姥切」のほか、兜もろとも八文字形に斬り捨てた「八文字長義」などが有名。

由来  

  • 北条氏政が長尾顕長に贈ったという長義の刀は、昔信濃戸隠山中の山姥なる化け物を退治したことから「山姥切」と号した。

来歴  

  • 北条家に伝来し、天正14年に長尾顕長に下賜。
  • 天正18年(1590年)5月に国広が銘入れ
  • 延宝9年(1681年)6月に代金152両1分にて徳川義直が買い求め、その後尾張徳川家に伝来した。
  • 昭和14年(1939年)9月6日に重要美術品指定、尾張黎明会所蔵。
  • 昭和24年(1949年)2月18日に重要文化財に指定。
  • 現在は徳川美術館で所蔵している

銘について  

  • もともと無銘だったのか、または大磨上されていたものに対して、天正18年5月長尾顕長の依頼を受けて堀川国広が「本作長義…」という長い銘入れを行っている。
    依頼を受けた際に国広が磨上と銘入れを行った可能性もある。
  • なお「顕長所持云々」は重要文化財指定の折に略されたもので、正しくは次のような文章となっている。

    本作長義天正十八年庚寅五月三日二九州日向住国広銘打天正十四年七月廿一日小田原参府之時従屋形様被下置也長尾新五郎平朝臣顕長所持

    つまり、天正14年7月21日に小田原城に参上した際に北条氏政から下賜されたもので、4年後の天正18年5月3日に依頼を受けた国広が銘打ちをしたものとわかる。

堀川国広作の「山姥切国広(写し)」  


堀川国広
銘 表「九州日向住国広作」、裏「天正十八年庚寅弐月吉日 平顕長」
山姥切国広 やまうばぎりくにひろ
二尺三寸三分
重要文化財
個人所蔵(千葉県)

作刀  

  • 堀川国広の作
  • 表裏に棒樋をかきとおし、鋩子乱れ込み掃きかける。なかごうぶ。先栗尻、目釘孔1個。
  • 表の目釘孔の下中央に細鏨で長銘、裏も同じく年紀および所持銘が入る。

由来  

  • 足利城主長尾顕長の依頼を受け、顕長所有の備前長船長義の刀を写して打ったもの。
  • 出来が素晴らしく、特に「山姥切国広」と呼ばれる。
  • 「山姥切」の由来は不明。

    足利城主長尾顕長のために鍛刀したもので、かつて顕長が北条氏直から拝領した備前長船長義の刀を写したものと伝える。下野国足利において鍛刀したものと推せられ、いわゆる国広の天正打といわれる刀の中で、最も出来の優れた一口。山姥切のいわれは不明である。
    重要文化財解説文)

来歴  

  • つまり、長尾顕長が北条氏政から拝領した長義作の”「山姥切」の写し”を、堀川国広に依頼してできあがったのが「山姥切国広」となる。
    • 堀川国広は「新刀の祖」と呼ばれるほどの名工で数多くの弟子を輩出したが、この足利滞在中の「山姥切国広」は国広作中第一の傑作として名高い。
  • 小田原落城後、長尾顕長も領地を没収され、刀は北条家遺臣の石原甚左衛門の手に渡る。
    石原が信州へ行く途中、小諸で妻が産気づき、山中の老婆に妻を預け薬を求めて出かけた。石原戻ると、産み落とした嬰児を老婆が食べていたので、驚いた石原が国広の刀で斬りつけると虚空へ消えていったという。
  • のち関ヶ原の際に石原は井伊家の陣に加わっており、同家の渥美平八郎が刀を折ってしまい困っていたのでこれを与えている。
    渥美平八郎家は正法念流未来記兵法憲法を学び、子孫師範役となり代々平八郎を名乗り三百石を領す。母衣役、物頭に至る。
  • 明治維新後、渥美家から彦根長曽根の北村醤油屋に質に入れ流してしまう。それを旧藩士の三居某が買い取り秘蔵する。
    百五十石の三居孫太夫家という藩士が存在する。
  • 大正9年(1920年)、国宝審査員杉原祥造が押形を取っている。この時は井伊家にあったという。その後、関東大震災で焼失したとされて山姥切は行方不明となっていたが、実は井伊家よりある旧臣に与えられていたという。
  • のち昭和35年(1960年)になって、旧臣の子孫がお金に困ったため旧主家である井伊家に買い取り方を願い出たことから、所在が判明した。
  • これを名古屋の愛刀家高橋経美氏が買い取るが、かねてよりの約束があったため、これを日本相撲協会映画部で国広を多く蒐集した伊勢寅彦に譲り、伊勢氏が所持したという。※伊勢氏は代わりに虎徹を譲ったという。
  • 昭和37年(1962年)6月21日付けで重要文化財指定を受ける。
  • 1966年刊行の「日本の美術 Vol.6 刀剣」佐藤寒山編でも伊勢寅彦氏蔵。
  • 現在は個人所蔵。


時系列  

  • 山姥切と山姥切国広の出来事が入れ子になっているため混乱しやすいが、次の時系列となる。
年月日長尾顕長視点での出来事整理
山姥切[長義作]山姥切国広[国広作]
文和~康暦頃
(1352~81年頃)
長義により作刀)
天正14年7月
(1586年)
北条氏政から「山姥切」拝領
天正18年2月
(1590年)
国広に山姥切の写し作刀依頼
[九州日向住国広作]
天正18年5月国広に銘入れ依頼
[本作長義]

堀川国広は当時諸国放浪中で、ちょうど天正18年頃に足利で鍛刀したことがわかっている。その時に写し(「山姥切国広」)を依頼し、出来が素晴らしかったため元の「山姥切」にも銘を入れさせたと思われる。国広には天正19年には京都に住すという銘もあるため、その頃には上京したものと思われる。




号「山姥切」について  

  • 「山姥切」という号がもともと長義作のものについていたのか?については、確たる根拠となる江戸時代以前の記録が残っていない。※伝来した尾張家の「尾張徳川家御腰物」にも記載がない。
    なお長義作の山姥切を所蔵する徳川美術館では、「尾張家蔵帳には、本刀が山姥切本歌との記述はありません」と断ったうえで、長義作の山姥切を「山姥切国広の本歌」と扱っている。
     また「日本の美術 Vol.6 刀剣」佐藤寒山編(1966年至文堂)においては、「山姥切の号は本来は、この長義の異名であったが、それを写したことから、山姥切国広と名づけられたものである。」としている。
  • ただしいくつかの理由があり、まず長義作のものに「山姥切」という号がつけられ、その後国広がその「山姥切」を写したと考えられる。
  • 1.化け物を斬ったという号は、ほとんど古刀にしかつかない。
    • 新刀の祖」と称される堀川国広を始めとして、慶長以降に作刀された新刀に分類される肥前忠吉津田助広虎徹井上真改などの作にも切れ味を示す号はいくつか存在するが、その中で鬼や大蛇など想像上の生物を斬ったといういわれを持つものはない。
    • これは、新刀登場直前の戦国時代には実際に人を斬る機会が増えたことや、さらに戦国末期に登場した死体での試し斬りが元和偃武以降は「御様御用」として確立・制度化したことも挙げられる。この頃にはいわゆる「截断銘」も、化け物を斬ったということではなく、「二ツ胴」「四ッ胴」など、どれくらい人を斬ることができるかという実用本位なものへ変化していったためと思われる。
    • また、室町時代には急速な農業・商工業の発展があり、国(現在の県)をまたぐような流通、貨幣経済の浸透や中華文明以外のヨーロッパ文明の伝来などがあり、さらに信長・秀吉の天下統一により人々の意識・価値観が大きく変わったことも影響している。
      映画「もののけ姫」で最初恐ろしげだったシシ神の森が、ディダラボッチが倒れ風が吹き去った後には優しげな山に生まれ変わったのと同じであり、このことは逆に身近なものであっても一つ一つに神が宿っており物を粗末にしてはならないと戒める風潮(付喪神)をも生み出している。
  • 2.国広作に先に「山姥切」とついたのであれば、長義作は「山姥切長義」となったはずである。
    • 号のある長義作は、「八文字長義」「六股長義」など”長義”という刀工を表す語がついており、それがつかないのはこの「山姥切」くらいである。これは「山姥切国広」の由来が銘により確かであったため、元の長義作には「山姥切長義」のように刀工を加えなくとも区別できたためと考えられる。
    • いっぽう国広作で号で呼ばれるのはこの「山姥切」の写しくらいである。重要文化財の「加藤国広」(三井記念美術館所蔵)があるが、これは加藤清正が所持したことにちなむ人名由来の号であり、江戸時代に入ってからの号・名物名にはこの人名由来(持ち主の領地や官名)が非常に多い。
  • 3.文化財登録時に「山姥切」と登録されていないのは享保名物帳所載ではないため
    • 現在「名物○○」と指定されているものは、ほぼ享保名物帳所載によるためであり、所載されていないもので名物や号が登録されているものは慶長以前からの名物などよほどの御家名物である。
    • 長義作「山姥切」のように、一般に号で呼ばれるにも関わらず文化財指定ではそれが書かれないものとしては下記がある。いずれも享保名物帳には載っておらず文化財指定にも「名物」表記は入らない。

      高麗鶴光忠
      [指定名]:刀〈無銘伝光忠/高麗鶴と金象嵌在銘〉
      城和泉正宗
      [指定名]:刀〈金象嵌銘城和泉守所持/正宗磨上本阿(花押)〉

  • さらには「狐ヶ崎」や「江雪左文字」などは名物を現す文字を含むが、指定では「名物」と冠されないものも多数ある。これらも同様に、御家名物と呼ばれ当時すでに高名であったにもかかわらず享保名物帳には載らなかったものである。
  • これらが「名物」と記載されないのは「享保名物帳」の影響によるものであり、長義作の「山姥切」は享保名物帳所載ではないため名物表記がないのは当然とも言える。
    ※「享保名物帳」に載っていないから名刀でないということでは決してない。名物帳は本阿弥家の押形名鑑という意味合いが強く、上杉家のように各大名家で秘蔵した名物は所載されていない。そもそも現在国宝・重文に指定される刀剣類約800のうち名物と指定または判断できるのはおよそ1割程度であり、さらに新刀国宝指定されたものもない。
  • なお、享保名物帳古刀のみで構成されており、国広を始めとした新刀は含まれない。新刀新々刀の評価がなされるのは、再び刀の需要が高まりだした江戸時代末、文久年間(1861~1864年)以降である。だからこそ吉宗は刀工を召し出し新刀奨励を行ったのである。名物の歴史も参照。

    されども世人專ら古刀を貴ぶの弊ありて。 新製は利刀にても。 好む人少きに至れり。 享保四年万石より上の人々。 領知の内に住ぬる刀工の事を御尋あり。
    (有徳院殿御實紀附録 卷十二)


  • ただしこれらの事とは別に、「山姥切国広」が国広第一の傑作と呼ばれるほどの素晴らしい出来であることは変わりがない。